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<title>標準OASIS学 - Gallagher's History</title>
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<title>第8話「トニー・マッキャロルの解雇」 -Gallagher's History</title>
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<description>「標準OASIS学」が、Twitterをはじめました。ブログを更新すると、すぐにTwitterに「記事の内容」「URL」が投稿されます。フォロワーになれば、最新のニュース&amp;amp;インタビューの更新情報があなたの元に！ &amp;darr;http://twitter.com/oasisstandard記事の感想からちょっとし...</description>
<dc:creator>murakami_lia</dc:creator>
<dc:date>2010-07-25T00:05:44+09:00</dc:date>
<dc:subject>Gallagher's History</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<p>「標準OASIS学」が、Twitterをはじめました。ブログを更新すると、すぐにTwitterに「記事の内容」「URL」が投稿されます。<br />フォロワーになれば、最新のニュース&amp;インタビューの更新情報があなたの元に！ &darr;<br /><a href="http://twitter.com/oasisstandard">http://twitter.com/oasisstandard</a></p><p>記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！<br /><a href="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html">http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html</a><br /><br />1994年の12月にクリスマスソングとして『Whatever』をリリースし全英3位を獲得したオアシスは、翌年4月の『Some Might Say』で遂にシングルでの全英1位を奪取し、その人気を不動のものとした。このリリース計画について、当初メンバーやアラン・マッギーは『Acquiesce』をA面にするべきだと主張したが、ノエルは首を縦に振らなかった。ノエルは『Some Might Say』をA面に据える必要があると周囲の反対を押し切り、見事ナンバーワンを獲得したのである。</p><p><br />『Some Might Say』のレコーディングを最後に、ドラマーのトニー・マッキャロルは事実上の解雇通告を受けることになった。ドラムの腕が未熟なためトニーにレッスンを付けるなど指南を施したものの、技術レベルの解決が見出されないためというのがその理由だった。普段からトニーは他のメンバーに苛められていた。ギグジーには「お前をナイフで刺してやる」と本気で脅迫され、慌てて泣きついた先のノエルには「いいや、ギグジー。安心しろ。俺が先にこいつを刺してやるよ」と更に脅迫を受けたということもあった。リアムからはコンスタントに苛められていた。ボーンヘッドだけはそんなトニーに優しかったが、いつの間にか一緒になって苛めるようになっていた。<br />ある日にはトニーが練習に行ったところドラムセットが道端に放り出されていたこともあったし、「お前は二度とドラムに近づくな」とノエルに冷たく通告されたこともあった。メンバーの誰もがトニーの腕の未熟さと向上心の無さには我慢の限界だった。そして、とうとうトニー・マッキャロルは解雇通告を受けることになったのである。彼はそれを受け入れるしか他になかった。『Definitely Maybe』での成功から更なるステップアップするには、ドラマーの交代が不可欠だとメンバーは英断に踏み切ったのだった。</p><p><br />後継にはアラン・ホワイトがその座につくことになった。彼はポールウェラー・バンドのドラマーであるスティーヴ・ホワイトの実弟である。アランのドラムをたまたまスタジオで観ていたノエルが気に入ったところからオアシスへの加入が急遽決定した。ドラマーの交代によってオアシスはサウンド面での強化を図ることができた。ロンドン出身でギグジーと同い年だったアランは、生粋のマンチェスター人で構成されているオアシスに馴染めるか当初心配していたが、彼のドラムの腕はメンバーの誰もがすぐに認めるところとなった。間もなく彼らはとても親しい間柄になった。愛称はホワイティ―。オアシス最盛期を支えた言わずもがなの名ドラマーである。<br />トニー・マッキャロルは後に印税を巡る裁判を起こし、オアシスから1億円以上もの金をせしめる和解案を勝ち取ることになる。また、2010年秋にはトニー自身が筆を取ったオアシス回想録『The Truth, the Noel Truth, is Nothing Like the Truth』が発売予定だ（英版のみ）。オアシスのメンバーは執拗に精神的な打撃をトニーに与えていたが、長兄のポール・ギャラガーは彼と親しい間柄で、良い飲み友達だったとポール自身が語っている。</p><p><br />失業保険で生活をしていたアランにとってオアシスの加入は喜ばしいことだったし、地元の友人達はこぞって祝福してくれた。何しろデビューアルバムで全英1位をあっさり奪った気鋭のバンドのドラマーを担うことになったのだ。<br /><br />アランはオアシスのドラマーとして正式に加入した。その後着々と進んでいったセカンドアルバムのレコーディングの最中、オアシスらしい事件が不幸にも起きてしまった。ひどく泥酔したリアムがノエルに派手な喧嘩を突然吹っ掛け、ホテルの植木鉢やテーブル、テレビが粉砕される大乱闘が始まってしまったのだ。ノエルはクリケット・バットでリアムをぶん殴り、怒り狂ったリアムは何故かボーンヘッドとホテルの外でひたすら殴り合っていたという。アランが運転する車に乗ってノエルは荒れ狂ったホテルを抜け出した。翌日になっても怒りの収まらないノエルは既にバンドを辞める決意を固めていた。マーカス・ラッセルは残りのメンバーを集め、ノエルがバンドを辞めたと静かな口調で切り出した。アランはオアシスに加入してからたいして日も経っていないのに、失職寸前の瀬戸際に突然立たされていた。まったくとんでもないバンドへ入ったものだ。しかし、この竜巻のような理不尽さが良くも悪くもオアシスなのである。結局、この事件はリアムが反省し謝罪を行いノエルと仲直りすることで解決となった。そして、ニューアルバムのレコーディングは何事も無かったかのように再び進んでいったのだった。</p><p><br />その夏オアシスはグラストンベリーでのライブを終えて、彼らはニューアルバムからの2枚目のシングルカット『Roll With It』のリリース日を正式に発表した。それは1995年の8月14日だった。ところが、である。後になって発表されたブラーのニューシングル『Country House』と同日の発売日になってしまったのだ。偶然の一致だろうか。いや、これは明白な故意によるものだった。何しろ元々『Country House』の発売日は8月28日であり、オアシスのリリース日を受けてブラー側が即座に変更したのだ。日頃から険悪だった彼らではあるが、とうとうブラー側がオアシスに向かって挑戦状を叩きつけた。どちらが一番かはっきりさせようじゃないか、と言わんばかりだった。<br />イギリスが誇る二大バンドが真正面から対決する！　同日リリースを知ったマスコミはすぐさまヒートアップし、その報道を繰り返した。<br />ブリッドポップの頂きに登る王者はいったいどちらのバンドなのか？</p><p><br />90年代ブリッドポップムーブメントの狂騒、音楽史的マイルストーン。オアシスVSブラー。人々の興奮をかきたて、圧倒的な速度でその勢いはイギリス中を覆っていった。</p><p><br />&nbsp;</p>]]>
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<item rdf:about="http://www.oasisstandard.co.uk/archives/1171045.html">
<title>第7話「Definitely Maybe」　－Gallagher's History</title>
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<description>「標準OASIS学」が、Twitterをはじめました。ブログを更新すると、すぐにTwitterに「記事の内容」「URL」が投稿されます。フォロワーになれば、最新のニュース&amp;amp;インタビューの更新情報があなたの元に！ &amp;darr;http://twitter.com/oasisstandard記事の感想からちょっとし...</description>
<dc:creator>murakami_lia</dc:creator>
<dc:date>2010-06-06T08:31:57+09:00</dc:date>
<dc:subject>Gallagher's History</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: small;">「標準OASIS学」が、<strong>Twitter</strong>をはじめました。ブログを更新すると、すぐにTwitterに「記事の内容」「URL」が投稿されます。<br />フォロワーになれば、最新のニュース&amp;インタビューの更新情報があなたの元に！ &darr;<br /><a title="http://twitter.com/oasisstandard" href="http://twitter.com/oasisstandard" target="_blank">http://twitter.com/oasisstandard</a><br /><br />記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！<br /><a title="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" href="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" target="_blank">http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html</a><br /><br /><br />セカンドシングル『Shakermaker』のメロディはコカ・コーラ社のコマーシャルソングを盗作したのではないかという疑惑で、発売日前から話題を振りまいていた。騒動は次第に大きくなり、同社が訴訟を検討しているという報が流れる事態にまで至った。対するノエルはそれを否定しなかったどころかコカ・コーラに関する歌詞の存在までも認めたため、マスコミは更に面白く書きたて、人々のオアシスに対する関心は高まった。しかし、リリースされたレコードを手に取ってみると、そんな歌詞はまるで存在しなかった。ノエルの販売戦略込みの悪ふざけだったのだ。この事件が功を奏し、『Shakermaker』はファーストシングルの勢いを上回り、全英11位にランクインした。<br />8月にリリースしたサードシングル『Live Forever』は、いきなりランキングの10位に飛び込んだ。ジャケットで使用されている写真は、あのジョン・レノンの生家だ。幼少期のジョン・レノンを育てたミミおばさんの家をデザインにすることで、母であるペギー・ギャラガーへの感謝を重ね合わせていたのだろう。また、ビートルズのラストアルバム『Abbey Road』の発売から25周年記念という意味もあってこの写真を選んだそうだ。<br />オアシスはまったくの新人バンドながらBサイド曲のクオリティにもこだわっていた。これはスミスの影響が大きかった。ノエルはいつも彼らのＢサイドのクオリティに感心していた。オアシスはA面に匹敵する曲を惜しげもなくカップリングに使用する。その傾向はセカンドやサードアルバムのシングルカットでより顕著になる。事実、『Acquiesce』や『Stay Young』は十分A面で通用する出来である。<br />ノエルの才能は留まるところを知らなかった。<br /><br /><br />ギャラガー兄弟は、子供の時からテレビで観るだけであったイギリスの音楽番組「トップオブザポップス」にとうとう出演を果たした。母親のペギーと長兄ポールは家族の快挙に手放しで喜んだ。あの素行の悪い兄弟、街の不良に過ぎなかったノエルとリアムが、何しろあっという間に自分たちの夢を実現していくのだ。ポールは新聞記事を欠かさず切り抜きスクラップを作っていたし、ペギーは親戚連中の分までレコードを買って配っていた。国民的番組である「トップオブザポップス」に映っているノエルとリアムの姿は、そんなギャラガー一家の誇りそのものだった。<br /><br /></span></p><p><span style="font-size: small;">ハッピーマンデイズは既に解散の憂き目に合い、ストーンローゼズは5年前にファーストアルバムをリリースして以来ひたすら沈黙を守り続けていた。彼らが中心となって創り出したマッドチェスタームーブメントは、過去のものとなり既に温もりを失っていた。この頃、1993年当時のイギリスで流行していた音楽は、アメリカが発信していたグランジだった。ニルヴァーナやパールジャムが代表格の新興音楽である。穴あきジーンズや古着のシャツといったファッションが街で流行し、人々はニルヴァーナを聴きあさり、グランジの信望者が次々と生まれていった。そして、全英チャートはグランジ勢力にすっかり制圧されていた。これではまるでアメリカから文化的侵略を受けているようなものだったので、一部の国粋主義者は公然とこの状況に対して異を唱えた。スウェードのブレット・アンダーソンもその一人だった。彼は露骨にアメリカに対して嫌悪感を表明した。だが、その圧倒的な勢いをかき消すことは誰にも出来なかった。<br />1994年4月5日、カート・コバーンが猟銃で自殺するという衝撃的な事件が起きた。この事件を契機にグランジムーブメントは暗転することになる。カリスマの逝去に伴い、瞬く間に浮力を失い落下していった。オアシスは偶然にもその翌週にデビューシングル『Supersonic』をリリースした。久々の力強い純国産ロックバンドの出現である。オアシスはグランジに代わる新たなシーンを創るのではないだろうか？　ブリティッシュロックの復権。それは人々が永らく本当に待ち望んでいたものだ。<br /><br /></span></p><p><span style="font-size: small;"><strong>イギリスの音楽は見事な復活を果たす。</strong>1994年の8月30日、オアシスのファーストアルバム『Definitely Maybe』がリリースされた。『Definitely Maybe』はデビューアルバム史上最速の売上でチャートの1位に駆け上り、以後1年間ランキングのトップ20に延々と居座り続けた。クリエイションにとっては記念すべき初めてのナンバーワンレコードだった。オアシスのアルバムはヨーロッパじゅうで売れ、労働党党首であり後の首相トニー・ブレアまでもが通勤時の朝に『Definitely Maybe』を聴いていたという。レコーディングに際して述べれば『All Around The World』や『Whatever』は既にこの頃完成していたが、ノエルは後のアルバムのために取っておいた。まだ始まったばかりなのだ。すべてを出す必要は無い、と彼は判断した。ノエルはかなりの余裕を持って、全英ナンバーワンを獲得したのだった。なお、『Definitely Maybe』に使われているジャケットの写真撮影はボーンヘッドの家のリビングルームで行われた。<br /><br /></span></p><p><span style="font-size: small;">オアシスのファーストアルバムと共に、長きに渡ってチャートのトップ20に居座り続けるアルバムがもう一枚存在した。ブラーの『Park Life』だ。中産階級出身のデーモン・アルバーン達が始めた学生バンドである。ブラーは当初アイドル的な位置づけでデビューしたが、この3枚目のアルバムでは著しく成長し、イギリスの日常を歌った歌詞とポップなメロディが秀逸となっていた。彼らもまたグランジムーブメントから抜け出した人々の支持を集めていた。新しいシーンを象徴する2枚のアルバムだが、多くの受賞を勝ち取ったのは『Park Life』のほうだった。ノエルやリアムは相当に面白く無かった。「あんなクソアルバムのどこが良いんだ！」と悪態をついた。<br />もっとも『Definitely Maybe』発売以前からギャラガー兄弟はブラーに最大級の嫌悪感を示していた。ブラーのメンバーが良く通っていたロンドン北部の都市カムデンのバーにノエルとリアムは乗り込み、そこでギターのグレアムを見つけたことがあった。簡単に自己紹介した後でグレアムをひたすらおちょくり、ブラーを侮辱する替え歌まで歌い、そのバーから出入り禁止を受けてしまった。そして、再び兄と弟はカムデンの別のバーへ行って、地元の客と喧嘩をし、出入り禁止を食らって、面白がっているのであった。<br />彼らの因縁は深まり続け、後に音楽史に残るイギリス中を巻き込んだ大事件へと発展することになる。<br /><br /></span></p><p><span style="font-size: small;">アメリカ発の退廃的な彩りが特徴的なグランジはイギリスのチャートから去った。その隙間を埋めるようにしてブリッドポップムーブメントが到来し、オアシスとブラーはその代表格として90年代を牽引していくことになる。イギリスは見事なまでに復活した。国中に英国万歳の空気が漂い、人々は喜びと共に沸き上がった。また、オアシスは1994年の9月に記念すべき初来日を果たし、東名阪のクアトロツアーを行っている。<br />『Definitely Maybe』は全世界で通算700万枚以上を売り上げるアルバムとなり、現在もオアシスの代名詞的な存在となっている。ラウドなサウンドとリアムの若々しい声は、昇りゆく太陽のごとく鮮烈な光景を聴く者に与える。鮮やかな、それでいて力強い本物のロックンロールだ。彼らの歌う世界は、甘ったるいロマンスでもなく、創作劇の舞台でもない。<strong>そこに存在するものは、イギリスの労働者階級の人々が抱く夢や希望、そしてありのままの現実である。</strong>ギャラガー兄弟を始め、メンバーはついこの間までコンクリートをこねくり回し、穴を掘り、配管を運び生計を立てていた。失業保険の世話になることも度々だった。退屈でうんざりするような日々だ。労働者階級の人達にとって、それが当たり前の生き方だった。オアシスはそこから見事に抜け出し、目がくらむような成功を次々と勝ち取っていった。労働者階級の希望として、彼らは人々の眼の前に彗星のごとく現れたのだ。かつてビートルズがそうであったように。</span></p>]]>
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<item rdf:about="http://www.oasisstandard.co.uk/archives/1137222.html">
<title>第6話「I Need To Be Myself」　－Gallagher's History</title>
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<description>「標準OASIS学」が、Twitterをはじめました。ブログを更新すると、すぐにTwitterに「記事の内容」「URL」が投稿されます。フォロワーになれば、最新のニュース&amp;amp;インタビューの更新情報があなたの元に！ &amp;darr;http://twitter.com/oasisstandard記事の感想からちょっとし...</description>
<dc:creator>murakami_lia</dc:creator>
<dc:date>2010-05-03T12:24:12+09:00</dc:date>
<dc:subject>Gallagher's History</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: small;">「標準OASIS学」が、<strong>Twitter</strong>をはじめました。ブログを更新すると、すぐにTwitterに「記事の内容」「URL」が投稿されます。<br />フォロワーになれば、最新のニュース&amp;インタビューの更新情報があなたの元に！ &darr;<br /><a title="http://twitter.com/oasisstandard" href="http://twitter.com/oasisstandard" target="_blank"><span style="font-size: small;">http://twitter.com/oasisstandard</span></a><br /><br /><span style="font-size: small;">記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！<br /></span><a title="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" href="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" target="_blank"><span style="font-size: small;">http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html</span></a><br /><strong><br /></strong></span><br /><br /><span style="font-size: small;">クリエーション・レコードの社長アラン・マッギーは1960年9月29日生まれで、グラスゴーの労働者階級の出自であり、スコットランド人の血を引いていた。また、プライマルスクリームのボビー・ギレスピーと同級生でもあった。成績も良くないし、とりわけ得意なことがあるわけでも無かった。一生を工場で過ごすのだろうとぼんやり思っていた。しかし、パンクロックとの出会いですべてが変わった。その音楽が教えてくれたものは、自分の人生は自分で切り開くという精神の在り方だった。クラッシュやセックス・ピストルズに出会い、パンクロックの精神が人生の信条となった。そのムーブメントが下火になっても、彼の魂はひたすらパンクロックに支えられていた。人生の途上でひどい麻薬中毒になり、ビジネスで幾多もの危機に瀕したこともあった。彼は人生を瀬戸際に追い込まれた時でも、パンクロッカーのごとく不屈だった。<br />アラン・マッギーは楽器の腕は大して無かったが、不思議な人望があり、プロモートする才能を持っていた。ロンドンのブリティッシュ・レールウェイで働きながら、その給料の大半をクラブ運営につぎ込み、しかも、やればやるほど金を失っていった。1984年にはクリエーション・レコードを設立し、レコードの販促に携わるようになった。主な所属アーティストは以下の通りだ。ジーザス＆メリーチェイン、プライマルスクリーム、マイブラッディ・ヴァレンタイン、ティーンエイジファンクラブ、ライド、ヘヴィーステレオ。経営は前途多難だった。例えば、マイブラッディ・ヴァレンタインのセカンドアルバム『Loveless』の製作が2年半にも渡り、費用の捻出のため破産しかかったこともあった。アルバム自体は「シューゲイザーの金字塔」と評されて成功を収めるが、アラン・マッギーとマイブラッディ・ヴァレンタインは不和になり、メジャーレーベルへ移籍するに至った。<br />看板アーティストを失うことになったクリエイションは資金難から1992年にソニーと契約を結び、倒産の危機を回避することが出来た。ソニーは資金を提供する代わりに、クリエイション所属のアーティストを世界中に販売する権利を得た。その最中、クリエイションは1993年10月にオアシスと契約することに成功した。しかし、1994年に発売したプライマルスクリームのアルバム『Give Out But Don&rsquo;t Give Up』の製作費も巨額に上り、スタッフ25人のインディーレーベルはまたもや破産寸前だった。窮地を救ったのは、新人バンドであるオアシスだった。<br />そして、1994年から1996年にかけての、誰も想像し得なかったオアシスの圧倒的な成功をアラン・マッギーは最も近くで目撃することになる。<br /><br /></span></p><p><span style="font-size: small;">1993年の終わり頃から『Colombia』が国営ラジオでオンエアーされ始めた。初期の曲のなかでも抜群にインパクトのある力強いもので、麻薬大国コロンビアに敬意を払って作られたという名曲だ。そのレコードはまだ一般には販売していなかったが、これはアラン・マッギーとマーカス・ラッセルの策略だった。正体の見えないバンドへの人々の関心は次第に高まった。オアシスは相変わらず小さなライブハウスを回り、並行して事件もせっせと積み重ねていった。酔っぱらってモーター付きの芝刈り機を盗み出し、遥か彼方まで芝を刈りながら消えて行ったこともあれば、「これはみんなのものだ！」と叫びながらストーンヘッジに侵入して逮捕されたこともあった。<br />オランダのアムステルダムではとっておきのハプニングを引き起こした。顛末は次の通りだ。リチャード・アシュクロフト率いるヴァーブのサポートとしてオランダで演奏することになっていたが、ノエル以外のメンバーはいつまで経っても到着したフェリーから降りて来なかった。ギグジーとリアムがシャンパンを盗み、酔っぱらって警備員と喧嘩し始め、独房に監禁されていたのだ。更に、ボーンヘッドとトニーも巻き添えを食らって強制送還の憂き目にあってしまった。部屋で眠り続けていたため事情を知らないノエルはひたすら彼らが降りてくるのを待っていた。しかし、いくら待ったところで降りて来なかった。オアシスにとって初めての海外公演となるはずだったが、当然ギグは中止となった。リアムは反省することも無く、「これぞ、ロックンロール的」等と誇らしげに語ったが、ノエルとマーカス・ラッセル、そしてボーンヘッドまでもが猛烈な怒りをリアムとギグジーに向けたのだった。また、別のライブでは楽屋でノエルが突然リアムを殴りつけ、兄弟喧嘩が始まることもあった。インタビュー中に掴み合いの喧嘩に発展することもあったし、どこへ行っても彼らは目立った。マスコミは面白がって、ますます注目するようになった。<br /><br /></span></p><p><span style="font-size: small;">94年3月にはオアシスにとって初めてのテレビ「ザ・ワード」に出演を果たし、ファーストシングル『Supersonic』が4月にリリースされた。当初は『Bring It On Down』がシングル候補としてレコーディングは進んでいった。しかし、レコーディングは難航していた。ノエルがアラン・マッギーに『Supersonic』のデモを聴かせたところ、「素晴らしい、これでいこう！」ということになった。新しい時代へと突き進んでいく、よりパワフルな曲がオアシスには不可欠だった。だから、ノエルは『Supersonic』を新たに書きあげる必要があった。彼らの精神的な在り方を込めたメッセージソングは、ファーストシングルにふさわしいもので現在に至るまでオアシスの代名詞になっている。あまりにも有名な歌詞「I Need To Be Myself&nbsp; I Can&rsquo;t Be No One Else」、「俺は俺自身である必要がある。他の誰にもなれはしないのだから」。ここにすべてが始まり、ギャラガー兄弟はいかなる時もこの信念に戻っていく。いつだって彼らはそうだった。ありのままの自分へのストレートな肯定。それはトラブルを巻き起こし、ファンを心配させる原因にもなっていたが、同時に彼らの強烈な魅力でもあった。<br /></span><span style="font-size: small;">『Supersonic』は全英チャートの31位まで登った。インディーチャートでは当然のごとく1位だった。それに伴って、ツアーのライブチケットは各地でソールドアウトとなっていった。遂に始まったのだ。<br /><br /></span></p>]]>
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<title>第5話「アラン・マッギーの登場」　－Gallagher's History</title>
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<dc:creator>murakami_lia</dc:creator>
<dc:date>2010-04-25T08:47:52+09:00</dc:date>
<dc:subject>Gallagher's History</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: small;">「標準OASIS学」が、<strong>Twitter</strong>をはじめました。ブログを更新すると、すぐにTwitterに「記事の内容」「URL」が投稿されます。<br />フォロワーになれば、最新のニュース&amp;インタビューの更新情報があなたの元に！ &darr;<br /><a title="http://twitter.com/oasisstandard" href="http://twitter.com/oasisstandard" target="_blank"><span style="font-size: small;">http://twitter.com/oasisstandard</span></a><br /><br /><span style="font-size: small;">記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！<br /></span><a title="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" href="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" target="_blank"><span style="font-size: small;">http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html</span></a><br /></span><br /><br /><span style="font-size: small;">リアムから見て兄のノエルはどこにでもいるありふれた男のように映っていた。マンチェスター・シティーの応援をして、マリファナやドラッグをやって酒を飲む。そして、時折孤独な背中を伺わせる。しかし、彼は突如として天才ソングライターとしての才能を披露し、オアシスのリーダーとして迎えられるに至った。実際には、ソングライティングの能力以外に、ノエルがインスパイラル・カーペッツから得た収入をあてにしたということも加入の要因になったようだ。</span></p><p><br /><span style="font-size: small;">ノエル・ギャラガーが加入した後のオアシスには、ある掟が存在した。それは「メンバー全員がバンドに全力を尽くす」ということと、「ドラッグや酒でステージへ支障をきたすことがないようにする」ということだった。全力の努力とドラッグへの完全なる自己責任。メンバーに課したものはたったのこれだけであった。しかしながら、オアシスがダートフォード・ボリテクニック大学でギグを行った時は、コカインやスピードでメンバーはステージ上でラリっていた。ボーンヘッドは煙草を三本もくわえたままだったし、ノエルは終始朦朧とし、ギグジーはステージから落下。トニーはドラムセットを叩いた瞬間にセットの半分が崩れ去る有様だった。おまけに彼らが連れて来たマンチェスターの連中は学生と喧嘩をし始めて大騒ぎとなった。しかも、ノエルが加入してまだ2回目のギグのことだった。だが、この程度の騒ぎはオアシスの暴動ヒストリーの序曲に過ぎない、ときっぱり言っておこう。オアシスの歴史は暴動の歴史でもある。行く先々で騒ぎを起こすことでも有名だ。例えば、2001年のマダムタッソー蝋人形館で調査したアンケート結果によると、世界の最も憎い人ランキングではオアシスのリアム・ギャラガーは堂々3位だった。1位はアドルフ・ヒトラー、2位がミロシェビッチ（ユーゴスラビア元大統領、民族主義独裁者として有名）という層々たる面子で、イラクのフセイン大統領よりランクが上だったのだ（ミュージシャンなのに&hellip;&hellip;）。そのアンケート結果はBBCニュースでも伝えられたのだった。素行の悪さの認知度は桁違いである。その片鱗はデビュー前に、既に浮かび上がっていた。</span></p><p><br /><span style="font-size: small;">オアシスは自分たちで大雑把なデモテープを作り、ボーンヘッドが運転するバンでメンバーは移動し、マンチェスターを中心にライブ活動を行った。だが、電光石火の高評価を受けたわけでは無かった。ノエル加入後の初ライブをボードウォークで行ってから1年程度は見向きもされなかった。ノエルはデモテープをレコード会社に送ってみたが、反応はかんばしく無かった。ニューオーダーやハッピーマンデイズが所属していたファクトリー・レコードも断りを入れたレーベルのひとつだ。そこでメンバーは、ノエルのツテを頼ってリヴァプール出身のバンドであるリアル・ピープルに無料でレコーディング会場を借り、本格的なデモテープを作成することにした。結果的に、今までのなかでは最高のデモテープとなった。</span></p><p><br /><span style="font-size: small;">ノエルには役者をしている友人がいた。名前をイアンといった。彼は言った「今度このデモテープを兄貴に聴かせるつもりだよ」<br />「お前の兄貴がいったい何で俺たちのデモテープに興味を持つんだ？」とノエルはいぶかしげに訊いた。<br />「ああ。実はね、言っていなかったけど、俺の兄貴はジョニー・マーなんだよ」<br />80年代のロックシーンに大きな影響を与えたスミスの天才ギタリスト、ジョニー・マーとふいに繋がった瞬間だった。おまけにノエルはスミスの大ファンだった。レコードはすべて揃えていたし、モリッシーのサインまで持っていた。それに同じギタリストとしてジョニー・マーには憧れを抱いていたのだ。願ってもないことだった。<br />テープを聴いたジョニーは早速ノエルに電話をかけた「素晴らしい。とにかく君に会いたいんだ」<br />二人は会い、大いに盛り上がった。そして、ジョニー・マーは、自分自身のマネージャーであるマーカス・ラッセルをオアシスに紹介したがった。ジョニー・マーが最も信頼している敏腕マネージャーだ。必ずやオアシスの助けとなることだろう。マーカスは当時忙しかったので、その話を断ろうとしていた。しかし、ジョニーは言った。「とにかく彼らのギグを観に行ってみないか。素晴らしいバンドなんだよ、本当に」<br />マーカスは半信半疑のままジョニーに引きずられるようにしてライブ会場に向かった。彼がこれほどまでに勧めるのだから、そのバンドにはきっと「何かが有る」と考えても良いだろう、とマーカスは思った。当時のジョニー・マーはそれこそギターの神様のように崇められていた存在だったのだ。そして、二人はライブ会場の扉の向こう側へ姿を消した。やがてライブが始まり、彼らはオアシスが織り成すロックの力強さと未来をびりびりと肌で感じ取った。本当に素晴らしいバンドだった。この時オアシスは『Live Forever』を初めてライブで演奏したのだった。</span></p><p><br /><span style="font-size: small;">運命の日は唐突に訪れた。1993年5月31日のことだ。クリエイション・レコードの社長アラン・マッギーとの出会いである。彼は、グラスゴーにある古いライブハウス「キング・タッツ・ワーワー・ハット」にいた。18ホイーラーという自分のレーベルのバンドが出演するし、妹に女性を紹介して貰おうとしてたまたま立ち寄ったのだ。一方のオアシスは出演依頼もされていなかったが、マンチェスターからバンに乗って勝手にやって来ていた。「おい、歌わせろよ。じゃないと、俺たちは何するか分からないぜ」とプロモーターを半ば脅して、無理やり出演枠の一番目をもぎ取った。彼らはギグをさせなければバーをぶっ潰すぐらいの勢いだった。ふてぶてしい、フーリガンのような連中だ。アラン・マッギーの目にはそのように映った。特にリアムはドラッグのディーラーのような風貌だった。しかし、その男は驚いたことにシンガーだった。いそいそと楽器を用意して、彼らが演奏したのはたったの4曲。『Rock&rsquo;n Roll Star』『Bring It On Down』『Up In The Sky』『I Am The Walrus』。わずか15分足らずだった。アラン・マッギーは感激し切っていた。全身が貫かれるような圧倒的なパフォーマンスだったのだ。彼はライブが終わった後で、ノエルに契約を持ちかけた。オアシスはまだどことも契約していなかったが、デモテープだけ渡して即答を避けた。その後20社以上の争奪戦となったが、結局ノエルとマーカス・ラッセルはクリエイションを選択した。</span></p><p><br /><span style="font-size: small;">アラン・マッギーはプレス担当のジョニー・ホプキンズにその夜早速電話をかけ、たった今観たばかりのオアシスについて熱く語った。彼はすっかり夢中になっていた。その熱っぽい電話は夜中じゅう何度もジョニー・ホプキンズの元にかかってくるのだった。「まじで凄いバンドを見つけたんだ！」アランはそう言って、感情を収める術を知らないまま、オアシスという新人バンドについてあれこれとまくし立てた。いつしかその情熱に溢れた電話はクリエイション・レコードの重要人物すべてに及んでいた。この時、アランが想像していたものは、プライマル・スクリームやストーン・ローゼズ規模の成功だった。運が良くて、R.E.Mぐらいにはなるかもしれない。そのラインがバンドとして達成出来る最高のものだろう、と。だが、デモテープで『Live Forever』を聴いてしまってから、その考えは綺麗に拭い去られてしまうことになった。「何て素晴らしい曲だ。これは本当に世界最高のバンドになるぞ！」<br /></span></p>]]>
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<title>第4話「レイン」　－Gallagher's History</title>
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<description>「標準OASIS学」が、Twitterをはじめました。ブログを更新すると、すぐにTwitterに「記事の内容」「URL」が投稿されます。フォロワーになれば、最新のニュース&amp;amp;インタビューの更新情報があなたの元に！ &amp;darr;http://twitter.com/oasisstandard記事の感想からちょっとし...</description>
<dc:creator>murakami_lia</dc:creator>
<dc:date>2010-04-11T12:23:58+09:00</dc:date>
<dc:subject>Gallagher's History</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: small;">「標準OASIS学」が、<strong>Twitter</strong>をはじめました。ブログを更新すると、すぐにTwitterに「記事の内容」「URL」が投稿されます。<br />フォロワーになれば、最新のニュース&amp;インタビューの更新情報があなたの元に！ &darr;<br /><a title="http://twitter.com/oasisstandard" href="http://twitter.com/oasisstandard" target="_blank"><span style="font-size: small;">http://twitter.com/oasisstandard</span></a><br /><br /><span style="font-size: small;">記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！<br /></span><a title="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" href="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" target="_blank"><span style="font-size: small;">http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html</span></a><br /><strong><br /></strong></span><br />リアム・ギャラガーはわずか6歳という若さで、担任教師を精神安定剤の日々に送りやった札付きの問題児だった。小学校の時も一貫して問題児であったし、中学校の時も一貫して問題児であった。リアムはとにかく自分の思った通りにいかないとすぐに癇癪を起し、周りの人間を圧倒した。ギターやバイオリン等の楽器すら一日で放り出してしまうぐらいのこらえ性の無さだった。16歳で学校を卒業した後は、フェンスを作る仕事に就いたが当番制のトイレ掃除が嫌で辞めてしまった。その後、ノエルが勤めていた英国ガス会社の配管工事の仕事に就いたが、「他人のために穴掘りをするのは嫌だ」と言って辞めてしまう。（ちなみに、長兄のポール・ギャラガーはノエルに「お前は穴を掘る才能がある」との不名誉な讃辞を送られていた&hellip;&hellip;。）<br /><br /></p><p>職を転々としていたリアムは部屋の中で大音量の音楽をかけ、歌を歌った。何事も長続きしないリアムだったが、歌に対する想いだけは違っていた。将来はシンガーになりたいと思うようになっていた。役所のカウンターに座っている相談員に向かって「俺はシンガーになりたいんだ」と主張した。当然、相談員はまともに相手をしなかった。結局、リアムは悪態をついて帰っていくだけだった。給付金でドラッグを買い、酒を飲み、少しばかり残った金は母親に渡す。なけなしの失業保険支給金を貰って、生活費に足らない分はマウンテンバイクをかっぱらって売りさばいた。日々は暗澹としていたが、マンチェスターではありふれた暮らし方のひとつだった。彼がこうして世の中の片隅でくすぶっている時、友人のボーンヘッドとギグジーが面白いことをやり始めた。レインという名前のバンドだった。<br /><br /></p><p>「レインはまったく手のつけられないバンドだった」と語るのはボーンヘッドだ。事実、レインは、芽の出る気配などまるでないバンドだった。ラッフルズ・ホテルというパブのワイン倉庫でリハーサルを繰り返し、ぱっとしないギグを定期的に行っていた。何だか弱々しい印象のバンドだったと言われている。その中心人物はボーンヘッド。本名はポール・アーサーズ。当時は左官屋を営んでいた。幼少から音楽に嗜み、友人のポール・マッギーガンに楽器の触り方を教えたのは彼だった。1965年6月23日生まれ。両親ともにアイルランド系カトリックの家系である。レインの前は、プレジャーインペインというバンドを少しばかりやっていたこともあり、彼は作詞作曲を担当していた。<br />ポール・マッギーガンはギグジーの愛称で知られているベーシストであり、1971年5月9日生まれで、父親は彼をかねてからフットボールの選手にしたかったそうである。生まれつき運動神経の良い子供で、フットボール以外の球技もこなし、9歳からはボクシングも始めていて、このボクシングがオアシスに入ってから非常に役に立ったそうだ。しかしながら、フットボールの試合中に怪我をしてしまい、選手生命が絶たれてしまった。ギグジーは電話会社に勤めながら、ボーンヘッドのバンドに参加していた。他には、ドラムのトニー・マッキャロル、ボーカルはクリス・ハットンという組み合わせだった。<br />クリスはやがてクビになり、代わりにリアムが加入することになった。その際にバンドの名前をリアムの発案でオアシスに変更することになった。レインという名前はビートルズのシングル『Paperback Writer』のＢ面の曲名から取ったものだった。一方のオアシスという名前は、ノエルの部屋に貼ってあったインスパイラル・カーペッツのツアーポスターのコンサート会場「スウィンドン・オアシス・レイジャー・センター」からアイデアを得たと言われている。とにもかくにも、新生レイン改めオアシスはスタートを切ることになった。リアムはこの時まだ18歳だった。<br /><br /></p><p>リアムは毎晩のようにして、彼らと時を過ごすようになった。4ヶ月間のリハーサルを重ね、作詞に頭をひねり、ボーンヘッドがそれに曲をつけた。初ライブのスケジュールは1991年の8月18日。マンチェスターのボードウォーク。スウィート・ジーザスというバンドの前座でオアシスは登場することになった。リアムは観客たちの前に出た。イアン・ブラウンのしぐさの真似をして、歌っていた。ただし、腕は腰の後ろに回して組んでいる。かなり特徴的な歌い方だった。彼らはオリジナルである『アリス』や『リマニス』、『テイクミー』といった曲を演奏した。このうち、ノエル加入後も取り入れられた曲は『テイクミー』だけだった。演奏はそんなに悪くなかったし、まずまずといったところだった。最もリアムは初めてのライブだったので、緊張が身体や表情からほとばしっていた。<br /><br /></p><p>ライブ演奏を見つめているのは若き日のノエル・ギャラガー。その狭い会場にはポール・ギャラガー、インスパイラル・カーペッツのメンバーもいた。決して芽の出ることのないバンドだったレインは、ロックンロールスターとして抜群の資質を秘めたリアム・ギャラガーをボーカルに据えた時に、最早別のバンドに生まれ変わっていた。少なくとも若いノエルが可能性を感じることが出来るバンドになっていた。そこへノエル・ギャラガーが加入することによって、オアシスはレイン時代との決別を完成することになった。「この頃には、アルバム3枚分の曲は既にストックしていたんだ」と豪語する希代の天才ソングライターの登場である。彼はようやく自分のバンドを持ったのだった。</p>]]>
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<title>第3話「マッドチェスターを駆け抜けて」　－Gallagher's History</title>
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<description>記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！http://www3.rocketbbs.com/731/standard.htmlノエルはマンチェスターの退屈な日々から抜け出そうと画策しているところだった。ハッピーマンデイズやストーンローゼズのライブに出かけ、マンチェスター...</description>
<dc:creator>murakami_lia</dc:creator>
<dc:date>2010-02-21T10:13:05+09:00</dc:date>
<dc:subject>Gallagher's History</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<p>記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！<br /><a href="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html"><span style="color: #858e96;">http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html</span></a><br /><br /><br />ノエルはマンチェスターの退屈な日々から抜け出そうと画策しているところだった。ハッピーマンデイズやストーンローゼズのライブに出かけ、マンチェスター・シティの試合を観るためにスタジアムへ足繁く通った。彼はきっかけが欲しかった。1988年12月、クリスマス前のある日のことだった。ノエルはインスパイラル・カーペッツのオーディションを受けに行った。「ボーカルがクビになり、新しく募集を行うことになったんだ」とグラハムに教えて貰ったのだ。ノエルはオーディションで幾つかの曲を力いっぱい歌った。しかし、「彼のボーカルはパワーが欠けている」という理由で落選してしまった。現在のノエルのボーカルは甘く繊細な魅力に溢れているが、昔はそうではなかった。</p><p><br />翌年、ノエルは仕事中の事故で足を骨折してしまった。重たいパイプが足の上に落ちてしまったのだ。彼は足にギプスをはめ、しばらくは不自由な身体となった。肉体労働が出来なくなってしまったので、職場は配置転換となった。会社は倉庫番の仕事をノエルに割り当てた。そこは滅多に人の来ない、気楽で退屈な場所だった。あまりの退屈さに彼はギターを持ち込み、曲を作り始めた。何しろ時間はたっぷりとあったし、この頃には将来の関心が音楽へ移っていたということもあった。彼は心ゆくまでギターを弾いた。この時期について、後年ノエルは振り返って「俺の人生にとってこの時間は貴重だった」というふうに言っている。名曲『Live Forever』はこの時に作られていた。</p><p><br />そして、骨折から回復すると退屈な仕事を辞めて、インスパイラル・カーペッツのローディとなった。ボーカルでは採用出来ないが、ローディとしてサポートして欲しいとのことだった。ノエルとしても願ってもないことだったので、快諾した。ちなみに、ローディとはツアーサポートを行う役割の人のことだ。楽器のケアやチューニング、セッティングを主に行う。ノエルはこの仕事を通して、ドラムやキーボード等の楽器も一通り取り扱うことが出来るようになった。また、マネージメントやレコード会社とのやり取りについても肌で実感することになったので勉強になった。アルゼンチンや日本など世界中を回ることが出来たのは良い経験だった。音楽業界への包括的な理解に繋がっていった。</p><p><br />インスパイラル・カーペッツは80年代後半から90年代初頭に威力を誇っていたマッドチェスター・ムーブメントの一角を担うバンドのひとつだった。他にはニューオーダーやハッピーマンデイズ、ストーンローゼズやプライマルスクリームが挙げられる。80年代はエクスタシー（MDMA）が蔓延し、ドラッグを用いた音楽イベントが爆発的流行を見せている時代だった。ドラッグ文化と根強く結び付いた音楽シーンはセカンドサマーオブラブと呼ばれていた。60年代に巻き起こったヒッピー文化の再来という意味だ。オーディエンスと主催者の枠を取り払い、知らない者同士で抱き合い感激し音楽を分かち合うという独特のスタイルがイギリスの至るところで出現した。セカンドサマーオブラブの流れは、野外や空き倉庫などで行われたフリーイベントであるレイブに繋がっていく。大抵のオーディエンスはイベント中にドラッグをキメているので、レイブ会場は異様で独特な雰囲気となった。よりいっそうの音楽的分かち合い。オーディエンスとパフォーマーの主体的融合がそこにはあった。そのようにして実現していった新しい音楽の在り方は、すぐさま社会問題に発展していった。エクスタシーによる死者が続出し、警察の取り締まりが入った。暴力や危険が不吉な疫病のように蔓延し、レイブ会場は次々と閉鎖されていった。やがてシーンは衰退していくことになった。</p><p><br />マッドチェスター期のロックバンドはこのような時代的背景の影響を受けていた。サイケデリックとダンスを志向した彼らの音楽は、新しい方向性としてのマンチェスター・ミュージックをロックンロール世界に突きつけた。ノエルがローディとして2年間所属したインスパイラル・カーペッツとは、そのような時代を駆け抜けていったバンドなのである。</p><p><br />インスパイラル・カーペッツのツアーを終えて、ノエルが帰って来ると母親があることを口にした。弟のリアムがマンチェスターのボードウォークで初ライブを行うというのだ。リアムが結成したバンドの名前は「オアシス」というらしかった。スウィート・ジーザスの前座としてその「オアシス」は登場した。1991年8月18日のことだ。観客は顔見知りばかりでざっと40人から50人ぐらいだった。ノエルとガールフレンドのルイーズ、インスパイラルズのメンバー、長兄のポール・ギャラガーも観に行った。身内ばかりでリアムは緊張していたが、初めてにしてはなかなか良いライブだったそうである。「オアシス」は悪くないバンドだった。その夜やった曲はすべてリアムとボーンヘッドが作ったものだ。ノエルは既にこの頃、誰にも披露していない、自信たっぷりの曲がたくさんあった。そして、自分のバンドというものを手にしたいと思っていたところだった。もちろん「オアシス」のメンバーはそのことを知らなかった。</p><p><br />もし、俺が作った曲を弟が歌ったら&hellip;&hellip;。リアムやボーンヘッド、ベースのギグジー、ドラマーのトニー。ノエルはある日彼らを集めて、『Live Forever』を試しに弾いて聴かせた。ノエル・ギャラガーのソングライティングの天才に、メンバーの一同は感銘を受けたようだった。「俺がオアシスに加入する条件」と彼は言った。「それはすべてのリーダーシップを俺に委ねること」というキツいものだった。しかし、誰も異論は挟まなかった。ノエルの披露した曲はどれもこれも素晴らしいものだったのだ。<br />「こいつはとんでもなくすごいことになるんじゃないか」<br /><br /><br />まったくその通りだった。</p><p>&nbsp;</p>]]>
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<item rdf:about="http://www.oasisstandard.co.uk/archives/1001986.html">
<title>第2話「インターナショナル・ツー」　－Gallagher's History</title>
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<description>記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html父親が不幸な幼少時代の元凶となっていたことは事実だが、良い影響を受けたものもある。ギャラガー兄弟はサッカーチームであるマンチェスター・シティーへ...</description>
<dc:creator>murakami_lia</dc:creator>
<dc:date>2010-01-17T11:59:27+09:00</dc:date>
<dc:subject>Gallagher's History</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: small;">記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！<br /><a title="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" href="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html" target="_blank"><span style="font-size: small;">http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html</span></a></span><br /><br /><br />父親が不幸な幼少時代の元凶となっていたことは事実だが、良い影響を受けたものもある。ギャラガー兄弟はサッカーチームであるマンチェスター・シティーへの熱烈なファンとなった。1971年からシティーはハーフタイムが過ぎると無料でスタジアムに入ることが出来るサービスを始め、それを利用して大のシティーファンであるトーマスが子供たちを連れていった。それからリアムが生まれた1972年からトーマスは、カントリー＆ウエスタンミュージックのDJとしてクラブハウスでアルバイトを始めた。大量のレコードを車に積んだり、機材を運ばせたりする仕事をノエルやポールに手伝わせたこともしばしばだった。彼らの最も近しい人物である父親には、マンチェスター・シティーへの熱狂と豊富な音楽があった。このことはギャラガー兄弟のルーツに繋がっていく。トーマスは元来無口で飲酒の習慣は無かったが、DJのアルバイトを始めた頃から酒を飲み始めるようになり、ますます手がつけられなくなった。ノエルはこの父親から特に嫌われていた。彼は精神的な問題から軽い失読症にかかり、吃音になった。学校の成績は不良。盗みやマリファナや接着剤などのドラッグを覚え、すっかり街のゴロツキとして成長していった。そして、リアムも同じような道を辿ったのだった。</p><p><br />ただし、ノエルは弟のリアムとは違って音楽に興味を持っていた。13歳の時に黒いギブソン・バードの安価なコピー品を手にした。彼は元来左利きだが、右利きでギターの練習をするとみるみる実力を付けていった。彼はさっそくビートルズの「涙の乗車券」等いくつかの曲を弾けるように練習した。セックス・ピストルズを始めとするパンクを聴き、後には兄のポール・ギャラガーの影響でモッズサウンドを手に取るようになった。</p><p><br />やがてペギーはトーマスと別れることを決意し、彼の外出中に新しい市営住宅へ子供たちを連れだって引っ越しを行った。カトリック教会からの破門と信仰への背信を恐れてなかなか応じなかったペギーだったが、子供たちの説得もあり、最終的には離婚に合意したのだった。ギャラガー一家にやっとのことで平和が訪れた。ノエルやポールはガス配管工事等の肉体労働や将来性の無い様々な単純労働に従事し、リアムもその後を追った。典型的なマンキュニアン（マンチェスター人の愛称）の生き方だった。</p><p><br />1988年5月29日、ノエル・ギャラガーは21歳の誕生日を迎えた。その日は仲間からのパブへの誘いを断って、クラブハウスのインターナショナル・ツーへストーンローゼズのライブを観に行った。彼はスプーン一杯のスピードを嗅いで、既に気分がハイになっていた。今夜はぱっと盛り上がろう、と考えていた。二階席で眺めたストーンローゼズは最高のギグを演出した。それは衝撃的な程の光景だった。眩く、力強いロックンロールの精神がそこには確かに在った。いつかそのステージに俺も立ってやろうじゃないか、とノエルは強い決意を抱いた。ふと、辺りを見渡してみると隣の男がライブをこっそりと録音していることに気が付いた。普段は人見知りの激しいノエルだったが、ハイになっていたため話しかけることが出来た。その男は最初びくりとしたが、ノエルが録音を取り締まるために話しかけたのではないと知って気を許した。彼らはほどなくして音楽のことを話し始めた。ノエルは最近買ったレコード、とりわけインスパイラル・カーペッツの話題を振ると男は大笑いをし、こう答えた。「俺がそのバンドのギタリスト、グラハム・ランバードだよ」その夜、彼らは電話番号を交換し、後に連絡を取り合う約束をした。この日を境にノエルの人生が大きく変化を見せ始める。同時に、まったくの偶然だが弟のリアムもインターナショナル・ツーの一階に居た。お互いに気が付いていなかった。彼もまたその夜のストーンローゼズのライブで同じように衝撃を受け、身震いをしていた。「人生が変わった瞬間だった」とリアムは後に語った。</p><p><br />このインターナショナル・ツーの以前の名前はアストリアだった。そこは若き日のペギーがトーマス・ギャラガーと初めて出会った場所でもあった。1964年のことである。アイルランド出身の移民で建設作業員をやっていると彼はペギーに自己紹介した。初対面の印象は物静かな男だったという。翌年には、結婚することになった。20年以上の時を超えて、名前を変えたその場所は彼らの子供であるギャラガー兄弟の人生にとっても運命的な転機を与えることになった。リアムはこの日を境にイアン・ブラウンのようなロックスターになることを本格的な夢として抱き、ノエルはグラハムからインスパイラル・カーペッツのライブに一週間後招待され親交が始まった。マンチェスターの鈍重な鉛色の空の下、低所得労働者としての退屈な日々から、彼らは既に一歩抜け出そうとしていたのだった。ロックンロールは、若き日のノエルとリアムに向かって、未来からの鮮やかな輝きをかすかに届け始めていた。</p>]]>
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<item rdf:about="http://www.oasisstandard.co.uk/archives/943739.html">
<title>第1話「幼き兄弟」　－Gallagher's History</title>
<link>http://www.oasisstandard.co.uk/archives/943739.html</link>
<description>記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！http://www3.rocketbbs.com/731/standard.htmlギャラガー兄弟にはノエルの上にもう一人の兄がいる。名前はポール・アンソニー・ギャラガー。ノエルにギターや音楽のことを最初に教えたのは彼だった。あ...</description>
<dc:creator>murakami_lia</dc:creator>
<dc:date>2009-12-20T10:58:38+09:00</dc:date>
<dc:subject>Gallagher's History</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<p>記事の感想からちょっとした雑談まで、標準OASIS学BBSへお気軽にどうぞ！<br /><a href="http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html">http://www3.rocketbbs.com/731/standard.html</a></p><p><br />ギャラガー兄弟にはノエルの上にもう一人の兄がいる。名前はポール・アンソニー・ギャラガー。ノエルにギターや音楽のことを最初に教えたのは彼だった。<br />ある日、突如として、彼の弟たちはイギリスの音楽史を塗り替えてしまうような有名人になってしまった。オアシスが飛ぶ鳥を落とす勢いでアルバムを売りさばいていた頃、彼は失業保険で食いつないでいたこともあった。有名人となった弟たち、そして有名人の兄となったポール。音楽は彼らの人生のすべてをあますところなく刷新していった。</p><p><br />三人の兄弟はマンチェスターのバーネイジで育った。マンチェスター。19世紀の産業革命期に綿工業の中心地として発展し、資本主義のメカニズムの先駆となった街。産業革命における組織的生産への転換は、多くの労働者を必要とした。経営権を握るのは、少数の裕福な資本家だ。頻繁な飢饉に見舞われていたアイルランドからの大量の移民は、産業革命黎明期のマンチェスターにやって来て働くようになった。彼らは小さな家に住み、日払いや週払いの給料を握りしめ、日々の生活を送っていくのがやっとという状況だった。伝統的な労働者階級、そして移民の街である。</p><p><br />未来を案じるより、今を楽しめばそれでいい。周囲の人間は誰も深いことなど考えずに酒を飲み、スタジアムにサッカーを観に行き、日々を刹那的に送っていく。この労働者階級的なる生き方に、市民は強い誇りを持っていた。マンチェスターに住んでいる労働者階級の子供たちが辿ることの出来る道についてノエルは言う、「マンチェスターでは、ミュージシャンか、フットボール選手か、ヤクの売人か、それともなければ工場で働くしかないんだ。もっとも工場はもうほとんどなくなっちゃったけどね」<br />彼らが選ぶことの可能な職業は非常に限定的なのだ。何故なら教育も受けていない、貧困家庭の中では進学もままならない。だから、彼らはその日暮らしを始める。その限定性に悲観せず、マンチェスター人は楽観的に誇りを持って生きていく。</p><p><br />ギャラガー兄弟の両親はともにアイルランドからの移民である。父親はトーマス・ギャラガー。粗暴で粗野な人物だった。理由無く頻繁に暴力を振るう。家族に対しては思い遣りの欠片も無かった。しかし、外面は優しくて気の良い男で通っていた。母の名前はペギー・ギャラガー。敬虔なカトリック教徒でもあり、慈愛に満ちた良き母。兄弟は三人ともに、母のことは慕っているが、父親に関しては最早血のつながりすら否定したいぐらいの嫌悪感を抱いていた。</p><p><br />ペギーは出会った当初のトーマス・ギャラガーの人物像を振り返ってみても、どこが良かったのか分からないと言う。付き合っていくうちに粗野で短気な性格も分かり始めてきた。周囲に結婚の是非を相談した時もあったが、着々と進んでいく準備に結局は逆らうことは出来なかった。1966年、ポール・アンソニー・ギャラガーが生まれ、1967年5月29日にはノエル・トーマス・ギャラガーをもうけた。1972年9月21日、ウィリアム・ジョン・ポール・ギャラガーが産声を上げた。リアム・ギャラガーのことだ。彼の本名はウィリアムといった。だが、彼はリアムと呼ばれることを好んだのだった。建設作業員で家にお金を入れず外で遊び呆ける夫を持っていては、安定した幸福な家庭生活を送れるべくも無かった。ペギーは小さな子供を持ちながらも、日々の糧を得るために働かないわけにはいかなかった。暗い影はこの結婚生活の最初から予兆的に存在し、実体を伴って彼女の目の前にその闇は広がっていくのだった。</p><p><br />トーマスの暴力は日々エスカレートしていき、ペギーや子供たちはよく殴られたり、蹴られたりした。特に父親は、ノエルを嫌っていた。事あるごとに、ノエルには辛く当ったのだった。そして、外に何人も愛人を作り、本当の家族のことはお荷物でやっかい払いしたいぐらいにしか考えていなかった。ペギーは数え切れないぐらいの絶望を抱いていたが、カトリック教徒として離婚することは出来なかった。神の祝福によって導かれた結婚は、人為的な意思によって引き裂くことの出来るものでは無いというのがカトリックの教えだった。教義に反する行為をするということは、神への冒涜と背信を意味する。幼いころからの信仰を捨てることなど到底出来ない。カトリックでは離婚どころか中絶や避妊すら認めてはいなかった。神が与え給う命は、人がコントロールするものではないとの観点からだ。何しろカトリック教徒の多いイタリアでは1970年まで法律に離婚制度が無かったというぐらいである。</p><p><br />ペギーにとって唯一の精神的な支柱は子供たちの存在だった。慢性的な貧困、恒常的に続く夫の暴力、怯えや恐怖の感情、続けなくてはならない結婚生活。幼きギャラガー兄弟を取り囲んでいた環境は、母親の献身的な愛情によってそのかたちをかろうじて留めているに過ぎなかった。彼らは有名になった今でも、母には素直な愛情と感謝を示している。なお、オアシス初期の名曲である「Live Forever」は、愛しい母親に捧げられたものだと言われている。</p>]]>
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<title>プロローグ　－Gallagher's History</title>
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<description> 2009年8月29日、ギタリストであるノエル・ギャラガーはオアシスを正式に脱退した。弟のリアムはそれを受けて、「オアシスは、もう無い」とタイムズ紙のインタビューに答えた。事実上の活動停止状態となった。 オアシスの歴史。ストレートな自己表現が信条の労働者階級出身で...</description>
<dc:creator>murakami_lia</dc:creator>
<dc:date>2009-11-29T15:36:19+09:00</dc:date>
<dc:subject>Gallagher's History</dc:subject>
<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: small;"> 2009年8月29日、ギタリストであるノエル・ギャラガーはオアシスを正式に脱退した。弟のリアムはそれを受けて、「オアシスは、もう無い」とタイムズ紙のインタビューに答えた。事実上の活動停止状態となった。</span></p><p><span style="font-size: small;"> オアシスの歴史。ストレートな自己表現が信条の労働者階級出身である兄弟が、ありのままの姿で世界的成功を収め、多くのファンを魅了し、一時期は「ビートルズを凌ぐ」とまで形容されるまでに至った。<br /> その最も高みにあった時期はどこだろうか。</span></p><p><span style="font-size: small;"><br /><br /> ノエル・ギャラガーは語る、「最も成功を実感した瞬間は、1996年8月に行ったネブワース・パークでの2日間のギグだ」。</span></p><p><span style="font-size: small;"> デビューアルバム「Definitely Maybe」をリリースしてからわずか2年後のことだった。ギグには2日間で25万人が集まり、300万人もの人がチケットを欲していたと言われている。驚くべきことに、この数字はイギリスの総人口の約5％に当たる。まさにオアシスは社会現象となっていた。「The Swamp Song」が真夏の熱気に響き渡り、オーディエンスのオアシスコールが集合的な塊となってそこに在った。見渡す限り圧倒的な人々の数だ。ノエルは恍惚の表情でオーディエンスたちを指差した。そして、あの有名な言葉でマイクパフォーマンスを行った「これは歴史だ！！」。</span></p><p><span style="font-size: small;"><br /> イギリスの音楽全体にとって、ネブワース・パークは輝きが凝縮された一つの歴史的瞬間だった。アラン・ホワイトの重厚なドラムがゆったりと空間を引き裂くようにして始まる「Columbia」からのギグ。ノエルとボーンヘッド、ベースのギグジーがそこに合わせて、リアムがゆったりと歌い始める。空撮の写真を見る限りは、本当に異様な光景だ。圧倒的な人々の数。新しい時代を眺めに来ていたというのに近かったのかもしれない。アメリカのグランジ勢力等に押されて、勢いが失われたイギリス音楽市場に、彗星のごとく現れたオアシスは、「いったいどこまで大きくなるのか？」とファンやマスコミから無数の期待と羨望を受けていた。</span></p><p><span style="font-size: small;"> 時代を一身に背負っていたと言っても、過言では無かった。</span></p><p><span style="font-size: small;"> あまりにも早い時点での圧倒的な成功によって、作り出されたのは金や名誉だけではなかった。ある種の歪みもそこには生じていた。サードアルバム「Be Here Now」のリリースでは、メンバーはそのことを実感することになる。ネブワースからわずか1年後のことだった。以後、人々のオアシスへの期待は後ずさりするように、少しずつ沈静化していった。ビートルズを超えるという形容もいつの間にか聞かなくなった。同時代を争っていたブラーは現在勢いが衰え、オアシスは事実上活動停止状態となった。</span></p><p><span style="font-size: small;"> しかし、それでもオアシスは多くのファンを魅了する稀有のバンドであることには変わりがないし、数多くの名曲がファンを生み続けている。</span></p><p><span style="font-size: small;"> オアシスというバンドの歴史は痛快だ。劇的であり、横暴でもある。喧嘩ばかりしている。階級社会のイギリス、ワーキングクラスであるギャラガー兄弟がコンクリートをこね回したり、盗みを働いたり、ドラッグをキメて酒を飲む生活から、目を疑うようなスピードで成功し、トップバンドとなり、現在の状況になるまで15年。その長い歴史のなかで、まず初めに掲げたかったのは「ネブワース・パーク」だった。</span></p><p><span style="font-size: small;"><br /> 画質は良くないが、映像はインターネットでも観ることは出来るので、探してみて欲しい。断片的に伝わって来る映像や音源の節々に至るまでが、その日に起こった巨大なギグの、出来事そのものが歴史的であったと直感できる。</span></p>]]>
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