Gallagher's History

第3話「マッドチェスターを駆け抜けて」 -Gallagher's History

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ノエルはマンチェスターの退屈な日々から抜け出そうと画策しているところだった。ハッピーマンデイズやストーンローゼズのライブに出かけ、マンチェスター・シティの試合を観るためにスタジアムへ足繁く通った。彼はきっかけが欲しかった。1988年12月、クリスマス前のある日のことだった。ノエルはインスパイラル・カーペッツのオーディションを受けに行った。「ボーカルがクビになり、新しく募集を行うことになったんだ」とグラハムに教えて貰ったのだ。ノエルはオーディションで幾つかの曲を力いっぱい歌った。しかし、「彼のボーカルはパワーが欠けている」という理由で落選してしまった。現在のノエルのボーカルは甘く繊細な魅力に溢れているが、昔はそうではなかった。


翌年、ノエルは仕事中の事故で足を骨折してしまった。重たいパイプが足の上に落ちてしまったのだ。彼は足にギプスをはめ、しばらくは不自由な身体となった。肉体労働が出来なくなってしまったので、職場は配置転換となった。会社は倉庫番の仕事をノエルに割り当てた。そこは滅多に人の来ない、気楽で退屈な場所だった。あまりの退屈さに彼はギターを持ち込み、曲を作り始めた。何しろ時間はたっぷりとあったし、この頃には将来の関心が音楽へ移っていたということもあった。彼は心ゆくまでギターを弾いた。この時期について、後年ノエルは振り返って「俺の人生にとってこの時間は貴重だった」というふうに言っている。名曲『Live Forever』はこの時に作られていた。


そして、骨折から回復すると退屈な仕事を辞めて、インスパイラル・カーペッツのローディとなった。ボーカルでは採用出来ないが、ローディとしてサポートして欲しいとのことだった。ノエルとしても願ってもないことだったので、快諾した。ちなみに、ローディとはツアーサポートを行う役割の人のことだ。楽器のケアやチューニング、セッティングを主に行う。ノエルはこの仕事を通して、ドラムやキーボード等の楽器も一通り取り扱うことが出来るようになった。また、マネージメントやレコード会社とのやり取りについても肌で実感することになったので勉強になった。アルゼンチンや日本など世界中を回ることが出来たのは良い経験だった。音楽業界への包括的な理解に繋がっていった。


インスパイラル・カーペッツは80年代後半から90年代初頭に威力を誇っていたマッドチェスター・ムーブメントの一角を担うバンドのひとつだった。他にはニューオーダーやハッピーマンデイズ、ストーンローゼズやプライマルスクリームが挙げられる。80年代はエクスタシー(MDMA)が蔓延し、ドラッグを用いた音楽イベントが爆発的流行を見せている時代だった。ドラッグ文化と根強く結び付いた音楽シーンはセカンドサマーオブラブと呼ばれていた。60年代に巻き起こったヒッピー文化の再来という意味だ。オーディエンスと主催者の枠を取り払い、知らない者同士で抱き合い感激し音楽を分かち合うという独特のスタイルがイギリスの至るところで出現した。セカンドサマーオブラブの流れは、野外や空き倉庫などで行われたフリーイベントであるレイブに繋がっていく。大抵のオーディエンスはイベント中にドラッグをキメているので、レイブ会場は異様で独特な雰囲気となった。よりいっそうの音楽的分かち合い。オーディエンスとパフォーマーの主体的融合がそこにはあった。そのようにして実現していった新しい音楽の在り方は、すぐさま社会問題に発展していった。エクスタシーによる死者が続出し、警察の取り締まりが入った。暴力や危険が不吉な疫病のように蔓延し、レイブ会場は次々と閉鎖されていった。やがてシーンは衰退していくことになった。


マッドチェスター期のロックバンドはこのような時代的背景の影響を受けていた。サイケデリックとダンスを志向した彼らの音楽は、新しい方向性としてのマンチェスター・ミュージックをロックンロール世界に突きつけた。ノエルがローディとして2年間所属したインスパイラル・カーペッツとは、そのような時代を駆け抜けていったバンドなのである。


インスパイラル・カーペッツのツアーを終えて、ノエルが帰って来ると母親があることを口にした。弟のリアムがマンチェスターのボードウォークで初ライブを行うというのだ。リアムが結成したバンドの名前は「オアシス」というらしかった。スウィート・ジーザスの前座としてその「オアシス」は登場した。1991年8月18日のことだ。観客は顔見知りばかりでざっと40人から50人ぐらいだった。ノエルとガールフレンドのルイーズ、インスパイラルズのメンバー、長兄のポール・ギャラガーも観に行った。身内ばかりでリアムは緊張していたが、初めてにしてはなかなか良いライブだったそうである。「オアシス」は悪くないバンドだった。その夜やった曲はすべてリアムとボーンヘッドが作ったものだ。ノエルは既にこの頃、誰にも披露していない、自信たっぷりの曲がたくさんあった。そして、自分のバンドというものを手にしたいと思っていたところだった。もちろん「オアシス」のメンバーはそのことを知らなかった。


もし、俺が作った曲を弟が歌ったら……。リアムやボーンヘッド、ベースのギグジー、ドラマーのトニー。ノエルはある日彼らを集めて、『Live Forever』を試しに弾いて聴かせた。ノエル・ギャラガーのソングライティングの天才に、メンバーの一同は感銘を受けたようだった。「俺がオアシスに加入する条件」と彼は言った。「それはすべてのリーダーシップを俺に委ねること」というキツいものだった。しかし、誰も異論は挟まなかった。ノエルの披露した曲はどれもこれも素晴らしいものだったのだ。
「こいつはとんでもなくすごいことになるんじゃないか」


まったくその通りだった。

 

第2話「インターナショナル・ツー」 -Gallagher's History

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父親が不幸な幼少時代の元凶となっていたことは事実だが、良い影響を受けたものもある。ギャラガー兄弟はサッカーチームであるマンチェスター・シティーへの熱烈なファンとなった。1971年からシティーはハーフタイムが過ぎると無料でスタジアムに入ることが出来るサービスを始め、それを利用して大のシティーファンであるトーマスが子供たちを連れていった。それからリアムが生まれた1972年からトーマスは、カントリー&ウエスタンミュージックのDJとしてクラブハウスでアルバイトを始めた。大量のレコードを車に積んだり、機材を運ばせたりする仕事をノエルやポールに手伝わせたこともしばしばだった。彼らの最も近しい人物である父親には、マンチェスター・シティーへの熱狂と豊富な音楽があった。このことはギャラガー兄弟のルーツに繋がっていく。トーマスは元来無口で飲酒の習慣は無かったが、DJのアルバイトを始めた頃から酒を飲み始めるようになり、ますます手がつけられなくなった。ノエルはこの父親から特に嫌われていた。彼は精神的な問題から軽い失読症にかかり、吃音になった。学校の成績は不良。盗みやマリファナや接着剤などのドラッグを覚え、すっかり街のゴロツキとして成長していった。そして、リアムも同じような道を辿ったのだった。


ただし、ノエルは弟のリアムとは違って音楽に興味を持っていた。13歳の時に黒いギブソン・バードの安価なコピー品を手にした。彼は元来左利きだが、右利きでギターの練習をするとみるみる実力を付けていった。彼はさっそくビートルズの「涙の乗車券」等いくつかの曲を弾けるように練習した。セックス・ピストルズを始めとするパンクを聴き、後には兄のポール・ギャラガーの影響でモッズサウンドを手に取るようになった。


やがてペギーはトーマスと別れることを決意し、彼の外出中に新しい市営住宅へ子供たちを連れだって引っ越しを行った。カトリック教会からの破門と信仰への背信を恐れてなかなか応じなかったペギーだったが、子供たちの説得もあり、最終的には離婚に合意したのだった。ギャラガー一家にやっとのことで平和が訪れた。ノエルやポールはガス配管工事等の肉体労働や将来性の無い様々な単純労働に従事し、リアムもその後を追った。典型的なマンキュニアン(マンチェスター人の愛称)の生き方だった。


1988年5月29日、ノエル・ギャラガーは21歳の誕生日を迎えた。その日は仲間からのパブへの誘いを断って、クラブハウスのインターナショナル・ツーへストーンローゼズのライブを観に行った。彼はスプーン一杯のスピードを嗅いで、既に気分がハイになっていた。今夜はぱっと盛り上がろう、と考えていた。二階席で眺めたストーンローゼズは最高のギグを演出した。それは衝撃的な程の光景だった。眩く、力強いロックンロールの精神がそこには確かに在った。いつかそのステージに俺も立ってやろうじゃないか、とノエルは強い決意を抱いた。ふと、辺りを見渡してみると隣の男がライブをこっそりと録音していることに気が付いた。普段は人見知りの激しいノエルだったが、ハイになっていたため話しかけることが出来た。その男は最初びくりとしたが、ノエルが録音を取り締まるために話しかけたのではないと知って気を許した。彼らはほどなくして音楽のことを話し始めた。ノエルは最近買ったレコード、とりわけインスパイラル・カーペッツの話題を振ると男は大笑いをし、こう答えた。「俺がそのバンドのギタリスト、グラハム・ランバードだよ」その夜、彼らは電話番号を交換し、後に連絡を取り合う約束をした。この日を境にノエルの人生が大きく変化を見せ始める。同時に、まったくの偶然だが弟のリアムもインターナショナル・ツーの一階に居た。お互いに気が付いていなかった。彼もまたその夜のストーンローゼズのライブで同じように衝撃を受け、身震いをしていた。「人生が変わった瞬間だった」とリアムは後に語った。


このインターナショナル・ツーの以前の名前はアストリアだった。そこは若き日のペギーがトーマス・ギャラガーと初めて出会った場所でもあった。1964年のことである。アイルランド出身の移民で建設作業員をやっていると彼はペギーに自己紹介した。初対面の印象は物静かな男だったという。翌年には、結婚することになった。20年以上の時を超えて、名前を変えたその場所は彼らの子供であるギャラガー兄弟の人生にとっても運命的な転機を与えることになった。リアムはこの日を境にイアン・ブラウンのようなロックスターになることを本格的な夢として抱き、ノエルはグラハムからインスパイラル・カーペッツのライブに一週間後招待され親交が始まった。マンチェスターの鈍重な鉛色の空の下、低所得労働者としての退屈な日々から、彼らは既に一歩抜け出そうとしていたのだった。ロックンロールは、若き日のノエルとリアムに向かって、未来からの鮮やかな輝きをかすかに届け始めていた。

第1話「幼き兄弟」 -Gallagher's History

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ギャラガー兄弟にはノエルの上にもう一人の兄がいる。名前はポール・アンソニー・ギャラガー。ノエルにギターや音楽のことを最初に教えたのは彼だった。
ある日、突如として、彼の弟たちはイギリスの音楽史を塗り替えてしまうような有名人になってしまった。オアシスが飛ぶ鳥を落とす勢いでアルバムを売りさばいていた頃、彼は失業保険で食いつないでいたこともあった。有名人となった弟たち、そして有名人の兄となったポール。音楽は彼らの人生のすべてをあますところなく刷新していった。


三人の兄弟はマンチェスターのバーネイジで育った。マンチェスター。19世紀の産業革命期に綿工業の中心地として発展し、資本主義のメカニズムの先駆となった街。産業革命における組織的生産への転換は、多くの労働者を必要とした。経営権を握るのは、少数の裕福な資本家だ。頻繁な飢饉に見舞われていたアイルランドからの大量の移民は、産業革命黎明期のマンチェスターにやって来て働くようになった。彼らは小さな家に住み、日払いや週払いの給料を握りしめ、日々の生活を送っていくのがやっとという状況だった。伝統的な労働者階級、そして移民の街である。


未来を案じるより、今を楽しめばそれでいい。周囲の人間は誰も深いことなど考えずに酒を飲み、スタジアムにサッカーを観に行き、日々を刹那的に送っていく。この労働者階級的なる生き方に、市民は強い誇りを持っていた。マンチェスターに住んでいる労働者階級の子供たちが辿ることの出来る道についてノエルは言う、「マンチェスターでは、ミュージシャンか、フットボール選手か、ヤクの売人か、それともなければ工場で働くしかないんだ。もっとも工場はもうほとんどなくなっちゃったけどね」
彼らが選ぶことの可能な職業は非常に限定的なのだ。何故なら教育も受けていない、貧困家庭の中では進学もままならない。だから、彼らはその日暮らしを始める。その限定性に悲観せず、マンチェスター人は楽観的に誇りを持って生きていく。


ギャラガー兄弟の両親はともにアイルランドからの移民である。父親はトーマス・ギャラガー。粗暴で粗野な人物だった。理由無く頻繁に暴力を振るう。家族に対しては思い遣りの欠片も無かった。しかし、外面は優しくて気の良い男で通っていた。母の名前はペギー・ギャラガー。敬虔なカトリック教徒でもあり、慈愛に満ちた良き母。兄弟は三人ともに、母のことは慕っているが、父親に関しては最早血のつながりすら否定したいぐらいの嫌悪感を抱いていた。


ペギーは出会った当初のトーマス・ギャラガーの人物像を振り返ってみても、どこが良かったのか分からないと言う。付き合っていくうちに粗野で短気な性格も分かり始めてきた。周囲に結婚の是非を相談した時もあったが、着々と進んでいく準備に結局は逆らうことは出来なかった。1966年、ポール・アンソニー・ギャラガーが生まれ、1967年5月29日にはノエル・トーマス・ギャラガーをもうけた。1972年9月21日、ウィリアム・ジョン・ポール・ギャラガーが産声を上げた。リアム・ギャラガーのことだ。彼の本名はウィリアムといった。だが、彼はリアムと呼ばれることを好んだのだった。建設作業員で家にお金を入れず外で遊び呆ける夫を持っていては、安定した幸福な家庭生活を送れるべくも無かった。ペギーは小さな子供を持ちながらも、日々の糧を得るために働かないわけにはいかなかった。暗い影はこの結婚生活の最初から予兆的に存在し、実体を伴って彼女の目の前にその闇は広がっていくのだった。


トーマスの暴力は日々エスカレートしていき、ペギーや子供たちはよく殴られたり、蹴られたりした。特に父親は、ノエルを嫌っていた。事あるごとに、ノエルには辛く当ったのだった。そして、外に何人も愛人を作り、本当の家族のことはお荷物でやっかい払いしたいぐらいにしか考えていなかった。ペギーは数え切れないぐらいの絶望を抱いていたが、カトリック教徒として離婚することは出来なかった。神の祝福によって導かれた結婚は、人為的な意思によって引き裂くことの出来るものでは無いというのがカトリックの教えだった。教義に反する行為をするということは、神への冒涜と背信を意味する。幼いころからの信仰を捨てることなど到底出来ない。カトリックでは離婚どころか中絶や避妊すら認めてはいなかった。神が与え給う命は、人がコントロールするものではないとの観点からだ。何しろカトリック教徒の多いイタリアでは1970年まで法律に離婚制度が無かったというぐらいである。


ペギーにとって唯一の精神的な支柱は子供たちの存在だった。慢性的な貧困、恒常的に続く夫の暴力、怯えや恐怖の感情、続けなくてはならない結婚生活。幼きギャラガー兄弟を取り囲んでいた環境は、母親の献身的な愛情によってそのかたちをかろうじて留めているに過ぎなかった。彼らは有名になった今でも、母には素直な愛情と感謝を示している。なお、オアシス初期の名曲である「Live Forever」は、愛しい母親に捧げられたものだと言われている。

プロローグ -Gallagher's History

2009年8月29日、ギタリストであるノエル・ギャラガーはオアシスを正式に脱退した。弟のリアムはそれを受けて、「オアシスは、もう無い」とタイムズ紙のインタビューに答えた。事実上の活動停止状態となった。

オアシスの歴史。ストレートな自己表現が信条の労働者階級出身である兄弟が、ありのままの姿で世界的成功を収め、多くのファンを魅了し、一時期は「ビートルズを凌ぐ」とまで形容されるまでに至った。
その最も高みにあった時期はどこだろうか。



ノエル・ギャラガーは語る、「最も成功を実感した瞬間は、1996年8月に行ったネブワース・パークでの2日間のギグだ」。

デビューアルバム「Definitely Maybe」をリリースしてからわずか2年後のことだった。ギグには2日間で25万人が集まり、300万人もの人がチケットを欲していたと言われている。驚くべきことに、この数字はイギリスの総人口の約5%に当たる。まさにオアシスは社会現象となっていた。「The Swamp Song」が真夏の熱気に響き渡り、オーディエンスのオアシスコールが集合的な塊となってそこに在った。見渡す限り圧倒的な人々の数だ。ノエルは恍惚の表情でオーディエンスたちを指差した。そして、あの有名な言葉でマイクパフォーマンスを行った「これは歴史だ!!」。


イギリスの音楽全体にとって、ネブワース・パークは輝きが凝縮された一つの歴史的瞬間だった。アラン・ホワイトの重厚なドラムがゆったりと空間を引き裂くようにして始まる「Columbia」からのギグ。ノエルとボーンヘッド、ベースのギグジーがそこに合わせて、リアムがゆったりと歌い始める。空撮の写真を見る限りは、本当に異様な光景だ。圧倒的な人々の数。新しい時代を眺めに来ていたというのに近かったのかもしれない。アメリカのグランジ勢力等に押されて、勢いが失われたイギリス音楽市場に、彗星のごとく現れたオアシスは、「いったいどこまで大きくなるのか?」とファンやマスコミから無数の期待と羨望を受けていた。

時代を一身に背負っていたと言っても、過言では無かった。

あまりにも早い時点での圧倒的な成功によって、作り出されたのは金や名誉だけではなかった。ある種の歪みもそこには生じていた。サードアルバム「Be Here Now」のリリースでは、メンバーはそのことを実感することになる。ネブワースからわずか1年後のことだった。以後、人々のオアシスへの期待は後ずさりするように、少しずつ沈静化していった。ビートルズを超えるという形容もいつの間にか聞かなくなった。同時代を争っていたブラーは現在勢いが衰え、オアシスは事実上活動停止状態となった。

しかし、それでもオアシスは多くのファンを魅了する稀有のバンドであることには変わりがないし、数多くの名曲がファンを生み続けている。

オアシスというバンドの歴史は痛快だ。劇的であり、横暴でもある。喧嘩ばかりしている。階級社会のイギリス、ワーキングクラスであるギャラガー兄弟がコンクリートをこね回したり、盗みを働いたり、ドラッグをキメて酒を飲む生活から、目を疑うようなスピードで成功し、トップバンドとなり、現在の状況になるまで15年。その長い歴史のなかで、まず初めに掲げたかったのは「ネブワース・パーク」だった。


画質は良くないが、映像はインターネットでも観ることは出来るので、探してみて欲しい。断片的に伝わって来る映像や音源の節々に至るまでが、その日に起こった巨大なギグの、出来事そのものが歴史的であったと直感できる。

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