Dig Out Your Soul

Noel Gallagher - Manchester City Magazine - January 2009

ノエル・ギャラガーが、マンチェスター・シティ、ゲオルギー・キンクラーゼ、そしてリバプール・フットボールクラブを嫌う理由について語る。

世界的に有名なミュージシャンの一人であり、かつ幼い頃より根っからのマン・シティファンであるノエル・ギャラガー。City Magazineはついに、ノエル・ギャラガーを捕まえ、いくつかの疑惑を晴らし、新たな事実を聞き出すことに成功した。

8年間。

8年間かけてEメールを送り、電話をかけ、第3者を通してメッセージを送り続け、やっとのことで、我々はノエル・ギャラガーにインタビューを行うことに成 功した。2001年、City Magazineの編集者という立場に戻ってきてからというもの、私がやりたかったことの一つが、読者に代わってノエル・ギャラガーと話し、マンチェス ター・シティ/OASISの独占インタビューを実現することだったのだ。

1990年初めからのOASISのファンである私が、この機会を逃すわけがない。「Live Forever」や「Don't Look Back In Anger」、「Masterplan」、「Cigarettes And Alcohol」を書いた本人と話をすること、とにかくそれが私の夢だった。

私はノエルと同じ年で、幼少時代を過ごしたのもすぐ近く、そして同じくマン・シティを追いかけてきた。悲しいかな、彼との共通点はここまでである。しかし これだけでも、打ち解けるには十分であり、夢のような電話インタビューのあと、私は受話器を元に戻し、テープを聞き、しっかり録音されていることを確認し て、ようやくほっと胸をなでおろしたのだった。ノエルも私やみなさんとそう変わらない人間であることを知って安心したというのが第一の感想だ。もっと早く に話せたらよかったのにと。

昔気質で、気取らず、率直なノエル・ギャラガー、その評判を実感したインタビューだ。35年前にマン・シティに夢中になってからというもの、彼は今でも変わらず熱いシティファンである。

ノエル・ギャラガーの愛すべき魅力を、レノンやマッカートニー以来の英国屈指のソングライターかつシンガーであるミュージシャンとしての才能を除いて挙げ るとするなら、そのトークセンスだろう。確かに、彼の物言いはぶっきらぼうだ。しかし70年代にバーニッジの公共団地で育って厳しい中等学校時代を過ご し、失業手当をもらう身から、一気に過去20年において最高のバンドの頭脳に成り上がるために戦わざるを得なかったのならば、誰しもお高くとまってなどい られないではないか。5千万枚のアルバムを売り上げた彼は、いまや誰と話すか、もしくは話さないか自由に選べる立場にいる。そこで私はインタビューの最初 に、貴重な時間を割いてもらったことに感謝し、ずっとインタビューをするためにアタックし続けてきたことを話したのだ。

「そうなんだ?初めて聞いたよ」と、ノエル。

これはつまり、私の長年に渡るお願いは、ノエルへとたどり着くまでの最初のハードルすら飛び越えられなかったということを意味する。しかし、City Magazineをはねつけてきたのがノエル自身ではないことを知って少し嬉しかったのも事実だ。私達から声をかけられて、彼がYesと言わないはずがな い。

それなら話も進めやすい。その時、リッキー・ハットンにベルトを渡すためにリアムと共にラスベガスに飛ぶ予定だったノエル。来夏にはHeaton Parkを初めとするビッグなスタジアム・ツアーを控えている。

ニューアルバム「Dig Out Your Soul」は、売り上げを伸ばし続け、OASISはこれからも健在であることが証明された。ノエルとリアムが、これからもマン・シティを応援していくように。ノエルに、マン・シティを応援し始めた時のことを聞いてみた。

「俺の記憶では、1971年のメインロードでマン・シティがニューキャッスルを5-1で降した時だったんだけど、最近確かめたら、その試合は1975年1月に行われたらしいな」。

「その時俺は7歳。マルコム・マクドナルドがニューキャッスルにシュートを放って、ボールがクロスバーに当たってゴールに入ったんだ。覚えてるゴールはそ れだけだが、鮮やかに思い出せるよ。で、インタビューで聞かれるたびに、この試合が最初と答えてきたから、本当に1971年だったのかちゃんと確かめたほ うがいいなと思って調べたら、マン・シティがニューキャッスルをそのスコアで降したのは、1975年だけだった。それより前に試合を見に行ってた可能性も あるけど、俺が思い出せる最初の試合は1975年のやつなんだ」。

30年のシティに失望させられたことにより、ノエルの父トミーがメインロードから他の親戚の待つオールド・トラッフォードへと寝返ってもおかしくはなかったのだが、反抗することがとりえのギャラガー家の男たちは、流行にも背を向けた。

「アイルランド人らしいだろ、俺の父方の親戚は、俺の父親とその3人の息子、俺、ポール、リアムを除いて、全員マンUを応援してたんだ。200人対4人だぜ」。

「どうして親父がマン・シティを選んだのかはわからない。ロマンチックに考えるなら、あのチームが俺達の住む地域を担ったチームだからだろう。俺達はロン グサイトで生まれ育ったが、それ以外の連中はマンチェスター出身じゃない。ロングサイトからメインロードまでは歩いて30分くらいで行けたことも理由とし て大きいかな。7歳では、自分がどのチームを応援していいのかもわからないし、どのクラブを応援しようが別にこだわらないんだ、ただ試合会場にいるという だけで興奮してたからね。手すりが眼下のピッチ近くまで続くキパックスは7歳の子供にとっちゃ特別な場所だった。父親が子供達を連れて行く場所といったら そこで、俺もそこに座らされたよ。周りには同じ年頃の子供がたくさんいて、親父はハーフタイムとゲーム終了後に俺達の様子を見に顔を出すんだ。そんな感じ さ。今じゃもう経験できないけどな」。

「毎週は連れて行ってもらえなかったけど、マン・シティ・エリアとも呼ぶにふさわしいバーニッジに引っ越したんだ。ロングサイトのセント・ロバートから
バーニッジのセント・バーナードに移ってからだね、俺の中で何かが変わり始めたのは」。

「晴れた夜には、新しい家の自分の部屋から、メインロードのまばゆいライトが見えた。シティが週半ばに試合をする時があって、そんな時はピカディリー・ラ ジオで試合を聞きながら、そのライトを眺めて『今まさにあそこで試合をしてるんだ』と思ったもんだよ。あの場所で起こってることなんだってね。試合解説で 『ゴール!』とか『ああ!』という叫びが入ることがある。『ああ!』がシティの敗北を意味した時には、震え上がったりしてさ」。

ノエルとリアム、そしてポールが、アッシュバーン・アベニューにある自宅から3マイル先のメインロードまで歩いて通うようになるまで、大して時間はかから なかった。母親のペギーがトミーと別れた後は、友人と共に試合を見に行くことだけが、シティファンとしての毎週の日課となる。

「初めて自分達だけで試合を見に行ったのは、中等学校に入ったころだったと思う」と、続けるノエル。

「何人か連れ立ってね。ずっと会ってないから名前までは思い出せないけど、6,7人でメインロードまで1時間かけて歩いていった。10代になりたての頃だったよ」。

ギャラガー兄弟が将来フットボール選手を夢見たことはあったのだろうか?ノエルはその頃から自分が将来その場所に違う形で戻ってくることを予感していたのだろうか?

「フットボールが得意だったかって?」。そう言うとノエルは、考え込んだ。

「クロード・マケレレがチェルシーでミッドフィルダーの座を自分のものとするまで、『ミッドフィルダーと言えばバーニッジのギャラガー兄弟』だったんだ。 でもやつにその名を奪われちまったな。ミッドフィルダーって言葉が生まれる以前から俺はミッドフィルダーだったんだぜ。俺がミッドフィルダーの地位を打ち 立てたと言ってもいい」。

「センターフォワードになろうなんてつまらねえことを思ったことは一度もないね。ゴールを決めていくうちに、ミッドフィールドにいた方がボールが回ってく ることに気付いたのさ。ディフェンスやフォワードになるには身体が小さかったから、ミドルのどこかにいようと思ったわけ。もちろんリアムは、簡単なボール ばかり回してもらってゴールするだけの汚ねえセンターフォワードさ」。

時が流れ、ノエルのキャリアや名声は、バーニッジにあるクリングル・フィールズの知名度を追い越さんとし、シティの選手達はメインロードで彼の夢を叶えていった。

「コリン・ベルやデニス・テュアート、マイク・サマービー、ゲイリー・オーウェン、スティーヴ・マッケンジー、ポール・パワー、ジョー・コリガンみたいな 選手のプレイを目にすることができて本当に幸運だったよ、あのスカイブルーのラウンドネック・ユニフォームでプレイする彼らをね」。

「俺にとってのヒーローはベル、そしてテュアート、それからピーター・バーンズ。それ以降は少し低迷するんだよな。バリー・シルクマンが登場したが、やつ のプレイは手段を選ばなかったから俺の好みじゃなかった。ポール・スチュワートが、たぶんシティで20得点を挙げた最初のストライカーだが、すぐに他の チームに叩き売りされちまった。デイヴィッド・ホワイトに夢中になったことはないな。俺にとってはどうでも良かったね」。

「ゲオルギー・キンクラーゼを皮切りにアリ・バーナビアやショーン・ライト・フィリップスとかが出てくるまではそれほどはまってはなかったんだ。ヒーローと呼べるほどの選手があまりいなかったんでね」。

仕事や家族のために、以前ほどホームでの試合を見ることができなくなってきたノエルは、最近ではバーミンガムの南で行われるアウェーでの試合を見ることの方が多くなってきたが、全ての試合を見に行った時期もあったそうだ。

「12歳から21歳頃まで、欠かさず行ってたよ」と、彼は回想する。

「1983年、下のクラスに落ちてから初めてのシーズンは、ホームでもアウェーでも必ず見に行った。当時は、フットボールファンが国中を回るのにおあつら えに交通の便が良くてさ。というのも俺達の半数は失業手当暮らしなもんだから、メインロードには普通の半分の値段では入れたし、Inter Cityで、列車の旅も簡単に出来た。だから80年代初頭はクラブを追いかけるのもそう高くはつかなかったんだよ。それに今は何と呼んでるかわからない が、昔でいうセカンド・ディヴィジョンにいるチームはほとんど北部のチームだった。毎週特にすることもないから、列車に飛び乗ってハッダーズフィールドや ブラッドフォード、バーンズリーに行くこともちょろいもんだったのさ」。

「メイン・ライン・クルーやヤング・ガヴァナー、アンダー・ファイヴズの連中で知ってるやつもいたよ。そこらへんには詳しかったし、今も会うことがある。マジでやばい時期だったんだよな、でもあの頃のフットボールは今と比べれば、ほんと手付かずだったと思うよ」。

「最近のスタジアムはどこもライトでまぶしく輝いているが、20年前俺達が通っていた頃は危険な場所で、特にリーズでのナイトゲームなんかは、無傷で家までたどり着けるかもわかんなかったんだ。だいぶ変わってきてる」。

将来を見越して、キパックスでチームを応援するための歌を作らなかったのだろうか?

「それはなかったな」と、ノエルは笑った。

「酔った勢いで、一度キパックスで即興で歌ったことはあったよ。『どこに行こうと・・・』とかそんな感じのをさ、そしたらみんなも一緒に大合唱だ。それで 『こりゃ良い!』と思ったわけ。もしかしたら、俺のソングライターとしてのキャリアはキパックスの裏から始まったのかもしれない。あの場所で、合唱の醍醐 味を知ったんだ」。

70年代のキパックスの盛り上がりは、ノエルに影響を与えたのかもしれないが、栄光への道は、彼が見よう見真似でギターを練習しはじめた時から始まった。 ノースウェストでカルト的人気を持つバンドのローディとして経験を積んだ後、ノエルはリアムのバンドThe Rainに加わることになる。

「1991年にOASISを始めて、それまではInspiral Carpetsのローディをしてたんだ」。

「グラハム・ランバートは、オールドハム・アスレチックのファンだった、当時たいていのバンドがそうだったようにね。クリント・ブーンはそこまで熱を上げ てなかったと思う。でもオールドハムのファンはやっぱり結局シティのファンなんだぜ - 俺がこれまで会ったオールドハム・ファンはこう言うやつばかりだったんだから。『俺は本当はマン・シティのファンなんだ、ただ家がホームから遠くて さ』」。

「マン・シティのファンになった時は、確かチームがファーストディヴィジョンにいた時だったと思う、でもお察しの通り、常に上がり下がりの波が激しかった。
でもオールドハムと試合をすると、何でかホームの試合でも負けるんだ - 絶対にね」。

レノンとマッカートニーを敬愛するならば、彼らと同じリバプールのファンになろうとは思わなかったのだろうか?

「実は」と、ノエル。

「俺の父親がリバプールで働いていた時があって、仕事柄アンフィールドに時々行くこともあったんだ。リバプール・ファンの友達もたくさんいるし、リバプール人は大好きだよ、でもリバプール・FCは癪にに障ると言わざるを得ないね、特にこの10年は」。

「金をばらまきつつ生み出した名プレイヤーは、ジェイミー・キャラガーとスティーブン・ジェラードだけ。今ようやく3人目のフェルナンド・トーレスが出てきて、リーグを制覇する勢いときた」。

「この嫌悪感の原因はたぶん、70、80年代まで遡るんだよな。リバプールがメインロードにやってきて、俺達を1-0、2-0、時には4-0と、毎回のように打ちのめしやがってさ」。

「おかしなことに、2,3年前休暇でイビサに行ったら、ケニー・ダルグリッシュの息子、ポールと偶然会ったんだ、俺が『お前の父さんはすごいな』と声をかけると、『今から電話をかけるからちょっと待って』と言うのさ。そして電話で長話することになった」。

「俺が『試合前の選手紹介でケニーという名前が読み上げられないかびくびくだったぜ』と話すと、ケニーは『メインロードはとても広くて、国内でも最高級の スタジアムだったから、プレイするのは大好きだった』と言ってくれた。『雰囲気は最高で、ファンの盛り上がりも素晴らしかった。フットボールにはこれ以上 ない場所がもうないと思うと残念だ』とね」。

「だから、俺は『それはいいんだけど、シティ・ファンはあのスタジアムに良い思い出が一つとしてないんだぜ。あのピッチで上手くプレイする方法をとうとうマスターできなかったと思うとな!』と言ってやったよ」。

皮肉なことに、1996年OASISがメインロードで伝説となるコンサートを行った後、マン・シティを降格へと追いやったのは他でもないリバプールだった。

当時、マン・シティとOASISはお互いに賞賛し合うことで互いの宣伝効果を高め、双方ともその図式に酔っていた。写真撮影、コンサート、ファッション。 音楽とフットボールの融合。相手は世界を手中に収めようとしていたOASISとくれば、シティはこの機会を逃すわけには行かなかったのである。

「最高だったぞ。ギャラガー兄弟がシティのスポンサーとなり、シティと俺達が一緒に紙面に登場するようになった。カメラマンは、ギャラガーと名前の入ったシティのユニフォームを着けろと絶えず言ってきた。シティとの最初のつながりはあの時に始まったんだと思う」。

「ユニフォームを着けてケヴィン・カミンズと一緒に、写真を撮ったこともある。あの有名な写真だよ。初めての日本ツアーをやる頃には、俺達はあれを着けて るのが当たり前だと思われてた。OASISシャツかなんかと思ってたんだろうなきっと。その後フラニー・リーに、日本でシティのシャツがどれくらい売れた のか聞いたら、
注文が殺到したからメールでのオーダーを受け付けてる状態だと言われたよ」。

「コンサートにはたくさんのファンがやってきて、『Brother』のロゴだけを入れた大きな垂れ幕を作ってきてるやつもいたぜ。俺が思うに、バンドと何 か関連があると思ったんだろう。でも実際俺はクラブのバッヂに入ってる船や赤い薔薇がどういう意味かもわからねえんだ。ファンもきっと首をかしげてただろ うさ」。

では、シティを公に応援するという方針は、将来的なレコード売り上げの伸びを見込んだ上での作戦だったということ?

「初めのうちは『これでマンチェスターの半分を占めるマンUファンを一挙に敵に回すことになるぞ』と思ったが、考え直したんだ。『だから何だって言うん だ?マンUは無敵でトロフィーだってたくさん獲ってるけど、俺達は一文無し、シティ・ファンは一文無しなんだ』。ってことで、堂々と旗を掲げたのさ」。

ノエルとリアムの力により、神聖なるメインロードへと転向する者が増え、アダム・パークやブーザム・クレッシェントで男達がたむろする光景が普通に見られ るようになった。そのシティと言えば、イングランド・フットボールの最下のディヴィジョンを低迷し続けていたが、ノエルが指摘するように、シティが失墜す ればするほど、観衆の数は増えていったのだ!

「いつも思うんだが、あの時がマン・シティ復活の時だったんだと思うよ、どういう風の吹き回しか、シティを応援するファン層が総入れ替えされたんだ。こう思ったこともあった。『サード・ディヴィジョンだぞ、物心ついた子供がそんなチームを応援したがるか?』ってね」。

「学校で言うには恥ずかしいかもしれないが、理由はともかく、シティがサード・ディヴィジョンであがけばあがくほど、応援する人の数は増えていったんだ。 OASISがそれに加担したかどうかは、知らないけどね。その頃はアウェーの試合をよく見に行ったよ。バッキンガムに住んでて、シティはウィコム, コルチェスター、レディングみたいなところで試合をしてたんで、行きやすかったのさ。『ああ、そういやボーンマスは初めてだな、シティが明日試合だってい うし、ボーンマスにまた行ける機会もそうそうないだろうから行ってみるか』ってな感じでね」。

ノエルにとってのヒーローの一人であるゲオルギー・キンクラーゼがチームにやってきたのは、シティの存亡がかかったちょうどその頃だ。

「シティにはいつだってキンクラーゼみたいな選手がいるんだ、輝ける天才ってやつさ。これがシティの戦略さ、1人の天才、そのプレイを見守る残りの6人。 ユナイテッドだとデイヴィッド・ベッカムがいるが、同時にロイ・キーンがいるだろう。今俺達に必要なのはそういう選手なんだ。ブラジル人たちに好きにさせ ない選手がね」。

「彼がやってきた時のことを覚えてるよ。クラブの関係者から電話をもらって、ジョージアンと契約したって聞いたんだ。誰だってと聞き返したが、やつと来た らゲオルギーの名前を正しく発音することすらできなかった。だから、そいつが選手として良いのか尋ねると、ジョージア対ウェールズの試合のビデオを見て獲 得することを決めたと言う。ゲオルギーの活躍で相手チームが完敗した試合だよ」。

「やつが対トテナム戦でデビューするのを見るために、ロンドンから飛んだんだ。テリー・ヴェナブルズの隣に座ったよ、解説とか何とかやってるあいつ、わかるだろ」。

キンクラーゼのデビュー戦を見たノエルが、シティはヨーロピアン・カップで優勝するか、ディヴィジョン・フォーに転落するか二つに一つだと言ったのは、有名な話だ。残念なことに、彼はおおよそ正しかった。最悪のシナリオへと近づいてしまったのである!

「キンキーを初めて見た時は、『こりゃこれまで最悪か最高かどっちかだな』と思ったよ」と言って、ノエルは笑った。

「どっちかわからなかったんだ!シティはいつでも極端だろ」。

「それで2,3年後、アリ・ベナルビアを獲得した時は『こいつは一体何者だ?』さ。俺の脳もだいぶ擦りきれてきてるが、もし今の時代で天才を一人選べといわれたら、アリにするよ」。

「ショーン・ライト=フィリップスを世界に通用する選手に仕立てあげたのは彼だ。キーガン下でのアリとショーンは最高だよ、5人制フットボールでしか見れ ないようなプレイをする。ベルコビッチ、アリ、そしてショーン・ゴーターがいた頃のシティは、俺がこれまで見てきた中でも最高のプレイをしていた。確かに 下のディヴィジョンかもしれないが、時々俺達が見せるプレイは信じられないくらいに輝いてるんだよ」。

Noel Gallagher - Globe And Mail - 2008/12/15

2008年9月、演奏中に襲撃を受けたノエル・ギャラガー。今夜行われ るカナダはロンドンでのギグで、もしかするともっと慎重な態度でステージに臨む彼の姿を期待している方もいらっしゃるかもしれない。しかし、インタビュー を行ったブラッド・ウィーラー曰く、彼にそんな心配は無用のようだ。

インタビューに入る前、私の中でのノエル・ギャラガーは次のようなイメージだった。

「名言多きブリティッシュ・ロックスター」や「荒れ狂うOASIS兄弟のうち才能のある方」、または「もじゃもじゃ眉毛のWonderwallライター」と言うべきか。

加えてこのことも付け加えておこう。彼は今でもときたまパブで騒ぐことが好きであり、熱烈なフットボールファンであり、ストーンズの中にビートルズを見出し、バンドのギタリストでありながら、シンガーのリアムを超える歌唱力の持ち主であると。

しかし実際にノエルと対面してみると、ぴったりくる表現は「のんびりとした、礼儀正しい落ち着いた人物」というものだ。そしてもちろん、「もじゃもじゃ眉毛」であった。

トロントで行われたVフェスティバル当日の朝、ノエルは記者たちと話をしていた。

マンチェスター出身のスーパースターは、モダン・サイケデリック・ブルースこと「Dig Out Your Soul」のこと、会場であるOlympic Islandで新曲を披露することを話している。

「誰がステージを作ったのかライトがどこから当たるのか、一体どういう風に進行するのか俺にはさっぱりわからないんだよ」。

ノエルは、細かいところまでコントロールしようとはしない。

「俺が考えることじゃない、他の誰かが指揮するんだ、そしてそれに従って俺は動く。だから俺はただ立ち上がってギグをするだけさ。そして飲みに行って2日目に臨むわけだ」。

私が彼の耳に入れるまで、リアムがインタビューをキャンセルしたことを知らなかった様子のノエル。

「ふーん、調子でも悪いのかね?」と、尋ねたノエルの声は同情とは違う別の何かがにじんでいた。

「まあいい、そのかわり今夜のギグではさぞかし良い声を聴かせてくれるんだろうよ」。

前日に飲みすぎたせいでキャンセルしたのだろうと、弟を疑っている。

しかしフェスティバルが終わった時、問題となったのはリアムではなく、ノエルの体調だった。

すでにみなさんもご存知のように、OASISのパフォーマンスの途中で、男がステージに乱入し、ノエルを背後から突き飛ばしたために、肋骨骨折の重傷を負っている。
その乱暴でショッキングな映像は、Youtubeでもはっきりと確認することができる。バンドは一旦ステージを去ったものの、再び現れ予定されていたセットリストをこなしている。ノエルの怪我の回復のために、その後いくつかのギグがキャンセルされた。

その後バンドはギグを続け、今夜のJohn Labatt Centreでのギグに至るわけだが、きっとみなさんは、ぞんざいなノエルでもさすがにセキュリティに目を配るようになっただろうと考えているだろう。

さきのインタビューで、ノエルが「ステージでの指揮」について言及したのは、ロックンロールと家庭生活の両立についての質問に答えていた時のことだった。

「ツアーが終わってイングランドに戻ったその翌日にはもう、俺はただの2児の父親に戻るんだ。父親が子供達とすることと言われて君が想像するようなことを、普通にやってるんだよ」。

そして1,2年の休暇後、「パパ」はソングライティングに本格的に取り組む。音楽の世界へと戻るのだ。そして楽曲が書かれ、アルバムがレコーディングされてリリースされる。

「家族は分かってるのさ」。

ジーンズにウィンドブレーカーといういでたちのノエルは、そう話した。

「たとえば今、俺はバンドにいてツアーに出てる。この状態が2年続くのは仕方のないことだとね」。

1994年のデビュー以来、それが彼らの生活だった。新作を出すたびに初期のアルバムと比べられるプレッシャーについて、ノエルは「気にしてない」と話した。「金銭面での不安はMorning Gloryが売れた時点で解決済み」なのだとか。

「あの後5年遊んで暮らそうと思えば余裕で出来たくらいだからな」。

もしも、あのワイルドな行いと兄弟喧嘩で悪名高いOASISが解散したとしても、彼は落ち込むことはないらしい。

「もし最悪そうなっても、アコースティックギター一つもって、このロンドンのどこでもギグをやってやるよ」と、まんざら冗談でもない様子でそう話すノエル。

「Albert Hallの完売だってこのくらい軽いもんだぜ」。そう言うとノエルは指をパチンと鳴らしてみせた(OK、少しジョークも入っているようだ)。

2006年に発売されたDVD「Lord Don't Slow Me Down」のプロモーションのために、彼はゲムと組んでアコースティック・ツアーを行ったことがあるのだ。しかも最近になって「今回のツアーが終わった ら、メンバー全員ソロプロジェクトに入っても良いと思ってる」とコメントしている。

1月にはヨーロッパ、3月には日本でのツアーを控え、さらに今年の夏はイギリスでのスタジアムツアーが予定されているOASIS。

そして、彼らは3週間に1度の割合で1週間の休暇がもうけられているものの、ノエルには音楽のキャリアと家庭生活という相容れない二つのものがある。

「今の俺は、ロックスター・モードなんだ。いつも誰にでも完璧な存在でいることはできないだろう。ツアーをやりながら同時に良きパパで責任ある大人でもあるなんて無理なんだよ」。

「無責任」モードのノエルは、本人曰く、酒に酔っては悪ふざけをすることに時間を費やすのだという。

「他にやることがないんだ」。

しかし悪ふざけと言っても度を越すようなことはしない。

「十分やりつくしたからな」。手を振りつつ、彼は話す。

「今になってもドラッグにはまってたとしたら本当に悲しいことじゃないか。つまり、自分の親がドラッグをやってたらどう思うかってことだよ」。

私は答えなかったものの、同じ頃、トロント・インターナショナル・フィルム・フェスティバルのために街にやってきていたロバート・ダウニー・ジュニアのこ とを悪い例として思い浮かべていた。かの俳優のことを話そうとするより先に、かつてコカインを常用していたこともあるノエルは、「もし公共広告をするとし たら」と話し始めた。

「『今こそ大人になる時だ』ってのはどうだ?『ドラッグは若者に任せて、前に進もう』」。

サイケデリックな雰囲気におぼれそうな「Dig Out Your Soul」は、「freaks rising up through the floor and heebie-jeebies in hidden sacks」という歌詞の入るアシッド・ロックな「Bag It Up」から始まる。ノエルはアルバムを
「The Pretty ThingsとPink Floydの融合」と表現するが、私は「White StripesとMagical Mystery Tourの融合」と表現したい。「Helter Skelter」からのギターリフを始めとして、ジョン・レノンの音声クリップ、実存主義を追い求めた「Revolver」期を思わせる「To Be Where There's Life」まで、ビートルズの影響が顕著である。

全体を見れば、今回のアルバムはこれまでで最も作りこまれた作品だと言っていいだろう。フェード・インからフェード・アウト、豪勢でありながらモザイクがかった風合いまで丹念に織り込まれている。

それについて、OASISのリーダーであるノエルは少し責任があるらしい。

「作るのは本当に楽しかったんだけど、俺は実験が好きなタイプじゃない」。

そう話した、コンピュータを持たない、ついでに言うと運転免許証も持たないノエル・ギャラガー。

「一日中座り込んで、飛行機が離陸するような音を作るような時間は俺にはない。エフェクトペダルとかそういうものには興味がないんだ。でも、ラッキーなことに、他の連中が興味しんしんなんでね」。

「Waiting For The Rapture」の歌詞にもうかがえるようなスピリチュアルな存在を一掃したノエルだが、同じく哲学的な意味を示唆する「The Nature Of Reality」や「Soldier On」などの製作過程には一切口出ししなかったらしい。

「同じテーマを一貫したアルバムを作ったみたいだが、本当に偶然なんだよ」。

「もしテーマを設定して曲を書けと言われたとしたら、まず、書けもしねえテーマを選んじまうだろうし、次に、3曲書いた時点で行き詰るはずだ」。

コンセプトは作らない主義のノエル。「Dig Out Your Soul」は、OASISファンが期待していた音ではないと話す。次のアルバムはもっと「曲重視」のメロディックなものにするらしい。

「俺は誰でも聴けるロックンロール・ポップ・ミュージックを書くんだ。ギターを手に取って自分に枷を課してスペースジャズやそういったものを書こうとは思わない」。

それを望まないのは、彼だけではないだろう。やはりOASISのファンは、拳を突き上げて合唱する「Don't Look Back In Anger」や「Wonderwall」のような曲を望んでいる。

ソロアルバムにしろ8thアルバムにしろ、彼らの道は続いていく。心配する必要はない。まずノエル自身、そういう心配などしていないのだから。

Noel Gallagher - Oakland press - 2008/12/12

オリジナルの記事はこちら。↓
http://www.theoaklandpress.com/articles/2008/12/12/entertainment/doc4942714e772b9003648019.txt

心を入れ替えたコントロールフリーク、ノエル・ギャラガー。

OASISが、「Live Forever」や「Wonderwall」、「Champagne Supernova」といったヒットシングルを連発し、ブリットポップという時代を定義づけた90年代初期、ノエル・ギャラガーはバンド唯一のソングライ ターであり、プロデューサーであり、弟でフロントマンのリアム・ギャラガーやBlurなど他のバンドとの喧嘩で紙面をにぎわせていた。

これを知ったリアムは落胆するかもしれないが、どうみても、当時のOASISはノエルのバンドだった。

しかし、最近ではその手綱が緩められてきた。ベースのアンディ、ギターのゲム・アーチャーといった信用に値するミュージシャンがバンドに加わってから、ノ エルは彼らに、そしてリアムに作曲をすることを許したのだ。2002年「Heathen Chemistry」の頃からである。

ノエルは、自分だけでなく他のメンバーにも作曲ができることに気づく。

「前はかなりのプレッシャーだったんだ、みんなが『ノエルは何を披露するんだろう』と待ち受けているのがね」と、ノエル・ギャラガー。

今年9月7日にトロントのステージで襲撃されて肋骨を折るなど波乱の幕開けの後、OASISが北米ツアーに戻ってきたのだ。

「だから以前は、5,6曲の良い曲を披露しさらに4,5曲も作らなきゃならなかった、そのもう4,5曲を作るのはかなりの時間が要ったんだ。今は真に良い 曲を作ることに専念できる。アルバム全てを作るという心配もしなくていいし、他のメンバーもやりたいことがやっていいのさ」。

今年10月に発売され、ビルボード・チャートで5位に入った「Dig Out Your Soul」で、ノエルは、もう一つの責任から解放された。プロデュースをデイヴ・サーヴィに任せたのだ。

「これはぜひとも言っておこう。これまで俺達が作ったアルバムで、プロデューサーに一任したのはこれが初めてなんだ。彼の言うことには何でも従ったよ」。

「『こうこうこういうアルバムにしたいんだ』なんてことは一切言わなかった。言わなくてもデイヴにはどういう形にするか見えていたんだ、それに・・・レコードにした曲に対しては確固とした考えを持っていたからね」。

出来上がった作品を「モダン・サイケデリック・ブルース」と名づけたサーディ。ブリットポップを作るとして認識されていたノエルには決して使われなかった表現だ。

「ブリットポップという現象は、全て偶然に起こったことなんだよ」と、彼は説明した。

「何もThe Queenの写真を見つめながら『俺達って・・・クールじゃねえのか?もっと英国について曲を書こうぜ!』なんて考えてから始めたことじゃないんだよ」。

「流行にのって曲を書くことはない。抽象的でタイムレスな曲を書いてきた。そういう意味では俺達とU2は似てるかもしれないな。U2はU2の音楽を作る。 特定の時代に絞って作るわけじゃない。バンドの時間に沿ってるのさ。ラジオで流れればすぐにU2の曲だってわかる理由は、そこにあるんだ」。

「俺達も同じだと思うよ。OASISも独自のやり方に沿っていて、期待に沿った音を鳴らさなきゃと変な心配をすることはない」。

「Dig Out Your Soul」のプロデュースをデイヴ・サーヴィに任せたことで、他のメンバーが自身のサウンドを作り上げやすくなったようだ、とノエルは話した。

「ゲムとアンディからこう言われたことがあるんだ。俺から『よし、では、新作用にどんな曲を用意したんだ?』と言われると、気が遠くなったってね。2人は自分の能力を過小評価してたのさ」。

「きっとデイヴが入ってからはだいぶ気が楽になったんじゃないかな、俺の元にお伺いを立てなくてもいいわけだから。デイヴ・サーヴィが決める。そのことでみんなやりやすくなったんだ、俺が思うに」。

それが必ずしもOASISにとって良いとは限らないけども。

2人の子供のいるノエルが、いくら自らを「丸くなった」と評しても、攻撃的な一面が残ってることは否めない。「Dig Out Your Soul」リリース時に行われたインタビューで、彼はRadioheadやColdplay、他のミュージシャンに対しても暴言を繰り出している。ただ、 Blurに対しては珍しくポジティブな考えを表明してはいる。

そして弟の話となると、今でも容赦は無く、リアムを「シンガー気取りのバカ」と評す。

リアムが「時間を無駄にした・・・10曲歌うのには十分な16週間という時間がありながら、8曲しか歌わなかった」ため、「2つの本当に最高の出来の・・・」曲を今回アルバムに収録できなかったことに、かなり頭に来ているようだった。

「サイケデリックな大曲」という「I Want to Live in a Dream in My Record Machine」、「Come On It’s Alright」の2曲は、ノエル曰く「もう書き上げ、デモも録った」という次回作に収録される予定だ。「キンクス中期」とニール・ヤングの 「Greendale」が融合したような音楽なのだそうだ。

「今回のアルバムとは全く違う」と、ノエル。

しかし、そのアルバムの発売はまだ先の話。2009年まではツアーをするというノエルは、「出す時に出すさ」と話した。またソロアルバムの方にもご執心らしく、2009年にはレコーディングを始めたいのだという。

「遅かれ早かれ作るよ、できれば遅いよりは早いほうがいいけどな。リアムが逮捕されてくれたらなあ、そしたらゆっくり取り掛かることができるのに」。

Noel Gallagher - Time Out Chicago - 2008/12/11

オリジナルの記事はこちら。↓
http://www.timeout.com/chicago/articles/music/69648/noel-coward-hardly

NFLとLSDを愛すOASISのノエル・ギャラガーだが、OASIS以外のバンドと自身の弟に対しては大して興味がないらしい。

「Wonderwall」がギャラガー兄弟を世界一ビッグなロックスター兄弟に押し上げてから13年、その間、彼らは殴り合いを繰り返し、兄弟間で争い、 メンバーを変え、5枚のいわゆる「原点回帰」アルバムを発売してきた。その最新作が今年発売された「Dig Out Your Soul」である。

1994年のMetroから、今週行われるAllstate Arenaと、OASISはシカゴでギグをするたびごとに、どんどん会場を大きくしているようだ。今回我々は、ノエルに電話インタビューを行うことができた。

北米ツアーではひどい目に会いましたね。ここに来ることにナーバスになっていませんか?

ノエル:まあ、つまりこういうことだよ、ここ3,4回のツアーで俺は、それはそれは不運な目にあった。自動車事故にはあったりあばら骨3本折ったりね。だから今度のツアーも「ふむ、次は何が起きるかな?」って感じさ。

9月のトロントで、男がステージに乱入してあなたに怪我を負わせたわけですが、病院にいる間、アメリカン・フットボールをよく見てたと聞きました。楽しめました?

ノエル:うん。アメフトは好きになって長いんだ、17歳くらいから見てる。イギリスで初めて見た時、俺はラリってたもんだから、わかるだろ、その色合いや らにはまったんだ。「一体何なんだこりゃ?」って感じさ。LSDやりながらだと、すげえサイケデリックなゲームになるんだぜ、イカれたアニメを見てるみた いで。

ひいきにしてるチームはあります?

ノエル:一つ選べと言うなら、ダラス・カウボーイズ。素晴らしいチームだからってわけじゃねえし、選手がどうとかも何もない。ただ、あの白地に紺色の星っていうシンボルマークがかなり好きなんだよ。

言いたくはないんですが、一番叩かれてるチームですよ。

ノエル:へえ、そうなの?本当に?うーん、そんなら連中の横に俺の名前は書かないで。じゃあ、ニューヨーク・ジャイアンツ。そうだ、シカゴ・ベアーズ!* 訳注1「冷蔵庫」* 訳注2って呼ばれてる選手は覚えてるぜ。ここは一つ、一般受けを狙って行こう。

あなたは十分一般受けしてますよ。レディオヘッドなど「ヘッドフォンで聴くための音楽」と比べて、OASISは「共有する体験」だとおっしゃってますね。

ノエル:そうだな、頭で聴く音楽を作るバンドと比べるとね。俺達は心で聴く音楽を作る。

では、一緒にツアーをしていたライアン・アダムスが、「Dig Out Your Soul」をレディオヘッドのアルバムの中でも一番難解とされる「Kid A」にたとえたことをどう思います?

ノエル:その記事は読んでないんだ、でももし本当に「Kid A」みたいだと思ったなら、ライアンはみんなとは全く違った見方を持っているみたいだな。俺はレディオヘッドの大ファンじゃない。シンガーの声がムカつく んでね。ライアンは褒め言葉のつもりで言ったんだと思うよ。

そうですね。あなたはインタビューのたびに他のバンドをけなしているように思いますが、インタビュアーにそそのかされてるところもあるの?

ノエル:もしあのバンドこのバンドについてどう思うと聞かれれば、良いとは思えないと答えるさ。自分が実際に思っていることを言うべきだろう。インタビュアーは大量の質問を投げかけてくる。でもそう、俺に銃を渡してくれれば的は外さないぜってことだ。

インタビューのリード文になるのは、たとえば「Kaiser Chiefsはクソッたれ」とかそういうのばかりですよね。

ノエル:まあ、実際その通りなんだもんな、仕方ない。Kaiser Chiefsが最悪なのは、どう頑張っても良い点が見つけられないところさ。コスプレごっこして、ゴミバンドの頂点に鎮座してるだけ。不細工なガールフレンドくらいでしかみんなの興味を引けねえんだから。

ごっこ遊びと言えば、あなたの弟さんは、Beatles、とりわけジョン・レノンの虜のようですが。

ノエル:ビョーキだよな。息子の名前もレノンなんだぜ?

ジョン・レノンは急進的な考えの持ち主でしたが、OASISは彼の音楽面に影響を受けているのであり、政治面については興味がないようですね。

ノエル:正直言って、ジョン・レノンの考えはいかがわしいんだよな。裏がある。いつも愛と平和を唱えていながら、同時にひどく暴力的な性格でもあった。人 間としてのBeatlesがどうだろうと構わねえんだよ、俺からすれば。一人の人間として見れば俺と同じようなもんだが、ソングライターとしては度肝を抜 かれるってだけ。俺はサングラスをかけてクールなレザージャケットをつけて、ギターを弾いて、クソ最高な存在でいなきゃならない。俺の興味があるのはそこ さ。

もしOASISが成功していなかったら、あなたとリアムの関係はどうなっていたでしょう?

ノエル:今ほど顔を合わせずにすむわけだから、少しは良かっただろうな。

リアムがニューヨークに引っ越して、ダコタビルディングに住みたがっているという話を聞きました。

ノエル:いいねいいね。ぜひそうしてほしいよ。ニューヨークがお荷物を背負ってくれれば、俺達は楽になるってわけだ。

* 訳注1 インタビューを行ったTimeout Chicagoの読者層を、しっかり狙っている。
* 訳注2 ウィリアム・ベリーのこと。サウスカロライナ州出身の元アメリカンフットボール選手。シカゴ・ベアーズの選手として知られており、冷蔵庫(The Refrigerator)と呼ばれて親しまれた。1994年に現役を退いている。

Noel Gallagher - Freep - 2008/12/11

オリジナルの記事はこちら。↓
http://m.freep.com/news.jsp?key=368276&p=2

ノエル・ギャラガー:OASISは不滅だ。

音楽プレスの方々へ:ノエル・ギャラガーは、「OASIS帰還」という表現を使ってほしくないそうだ。

しかしここ10年はそれがOASISの決まり文句だった。OASISがアルバムをリリースする。アルバムは手堅い評価を得る。メディアはその予期せぬ出来をわめきたてる。

弟リアムと共にバンドの基盤を作り上げてきたノエルは、「Dig Out Your Soul」のリリースで始まったいつもの大騒ぎに耐えていた。

「いつも『戻ってきた』と書かれるからイライラするんだよ、初めから俺達はどこにも行ってないってのに」。

ノエルはそう言って、OASISのアルバムリリースは、U2やColdplayのそれとなんら違いはないと話した。

「OASISとなると、なぜかそういうくだらねえ話になるんだよな、20分ごとにビートルズの名前を出して、火事でも起こったかのように俺とリアムの仲について騒ぎあったり」。

バンドの不安定要素はそのメンバーチェンジ、特にスパイナル・タップ並みのドラマーの交代頻度にある。土曜日Palace Of Auburn Hillsで行われるギグでは、クリス・シャーロックがドラマーだ。彼はOASISの肌に合った少なくとも6人目のドラマーであり、今年の春にノエルとの 仲違いから4年目にして道を分けたザック・スターキーの交代要員として呼ばれている。

その交代劇が全てを表している。根本的に、OASISといえばギャラガー兄弟であり、ノエルがバンドの心であり魂だ。OASISはいまだに彼のバンドということ。18年前にマンチェスターで結成され、リアムとともに築き上げたバンドなのである。

OASISは90年代にスタジアムチケットやシングル、アルバムで見せたような驚異的なセールスを受けるバンドでは、もうない。しかし今でも多方面から賞賛を浴び、熱狂的なファン層を保持するバンドだ。

10月に発売された「Dig Out Your Soul」は、いつも通りのOASISが感じられる。メロディックでシンプル、昂揚感のある確かな仕上がり。バンドが音楽界に現れてから14年。ノエルは話す。音楽を変える必要はどこにもないと。

「いつもサウンドを変え、違うことをやろうとするバンドがいる。俺はそうやって、自分を改革したりバンドを改革しようとは思わない」。

「俺達には強いアイデンティティがある。探してきたものはすでに掴んでるんだ。もう何かを探しに行く必要はない。世界中のバンドが望む位置にたどり着いた んだから。あるべき自分の姿、サウンド、たくさんのファン、そしてファッションにね。ありもしないものを永遠に探し続けることはしない」。

もちろん、メロドラマのないツアーなんてOASISのツアーじゃない。たとえば、デトロイトのファンは96年の出来事を思い起こすだろう。バンドから抜けていたリアム・ギャラガーが、このPalaceのショーでバンドと合流したあの騒動だ。

しかし、今年のエピソードはこれまでよりも危機に接したものだった。9月、トロントでノエル・ギャラガーがファンに襲撃されて3本の肋骨を折る重傷を負ったために、いくつかのショーが延期になったのだ。今週のPalaceギグは完璧な体調だそうなのでご安心を。

41歳になるノエルは、今では家庭第一の父親だが、その休養期間にたまりにたまったストレスは、彼がいかにツアーを楽しみにしているかを証明することになった。

「ツアーが退屈なんて文句は他のバンドに言わせとけばいい」と、ノエル。

彼は、ツアーの最中も「毎日楽しみを見つけて」いるのだそうだ。

「他のロックスターのぼやきが俺にはわからない。本当に妙な態度だと思うね。つまり、これから俺達は2年間ツアーに出るわけだろ。俺が墓場まで持っていく ことになるだろう思い出がたくさんできるんだ。世界の変容する様も、良かれ悪かれ目にすることができる。俺はギグをするのが好きなのさ。国から遠く離れれ ば離れるほど良い」。

ノエルは、名言を作り出すのが上手い。こと、弟や英国のロックシーンに対する辛辣な言葉には事欠かない。

「今の若い連中は役立たずだな。何も持っちゃいない。何も考えてない。良いのは外見だけでそれだけだ。ここ5年間でイングランドから出てきた名曲を一つでいいから挙げてみろよ」。

こんなことを言ってはいるが、本人曰く、これでも性格的に丸くなったほうなのだそうだ。

今は作曲に神経を傾けているという。すでに次のレコードのために5曲書いてあるとか。

「俺が一番困難を感じるのは作曲なんだ。作曲に取りかからない理由はいくらでも見つけられる。テレビの前に陣取るとか煙草を吸いに庭に出るとか」と、ノエル。

「でも出来る時は、一瞬で曲の3/4が完成するんだよ。スタジオにいる時の俺達は、最高の仲間同士なんだ、いつも、いつでもね」。
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