標準OASIS学

UKロックバンド、OASISのブログです

Gallagher's History

第9話「オアシスVSブラー」 -Ghallagher's History

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1995年と言えば、オアシスとブラーが最も火花を散らした年である。
オアシスの代表作である「(What's The Story)Morning Glory?」からのシングルカット
「Roll With It」が1995年8月15日発売が決定されると、ブラーサイドも動き8月28日発売予定であった「Country House」を同日8月15日に変更してきたのであった。
マスコミはおもしろおかしくかき立て、国中を巻き込んでの騒動になった。
ブリッドポップ戦争、それはすなわち労働者階級と中産階級の対立をも孕んでいたものであった。
一週間のセールスカウントはオアシス21万枚に対して、ブラーは27万枚だった。
この数字には裏があって、ブラー側は「Country House」のシングルを2種類リリースしており、それが足し算してカウントされていたのだ。
また、オアシス側のシングルカウントには何万枚という数のバーコードにミスがあって票に入らなかった。
更にブラー側は追い打ちをかけるかのように、オアシスと同じ日にコンサートを行うと発表したりと、二つのバンドの確執は深まるばかりだった。
この件に関しては、オアシスは1日予定をずらすという方法で対処したのであった。

シングル対決で負けてイライラしていたノエルは悪態を連発してしまう。
「ブラーが俺たちの歌詞を盗んだって不思議はない。
だけど、俺たちがあいつらの歌詞を盗むのは不可能だね。
あのくだらないクソのような歌詞をいったいどうしようって言うんだ」
あげくの果てには「ブラーのデーモンとアレックスはエイズにかかって死ねばいい」とまで言ってしまい、それにはマスコミも大バッシングを浴びせる結果となった。
最終的にはノエルが謝罪することで事なきをえた。

そして1995年10月10日、「(What's The Story)Morning Glory?」が発売されるとオアシスは一挙にブレークし、最終的には全世界で1800万枚を売り上げるというモンスターセールスを記録に残した。しかし、このアルバムに対して最初はメディアは批判的だった。
オアシスは終わったであるとか、ノエルは才能を使い果たしてしまったとかそういったレビューが多かったのだ。
しかし、90年代を代表する作品として今も売れ続けるのであった。
現代のビートルズ、そういう形容がついて回るようになり、やがて
あの伝説のネブワースパークへとオアシスは突き進んでいく。

第8話「トニー・マッキャロルの解雇」 -Gallagher's History

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1994年の12月にクリスマスソングとして『Whatever』をリリースし全英3位を獲得したオアシスは、翌年4月の『Some Might Say』で遂にシングルでの全英1位を奪取し、その人気を不動のものとした。このリリース計画について、当初メンバーやアラン・マッギーは『Acquiesce』をA面にするべきだと主張したが、ノエルは首を縦に振らなかった。ノエルは『Some Might Say』をA面に据える必要があると周囲の反対を押し切り、見事ナンバーワンを獲得したのである。


『Some Might Say』のレコーディングを最後に、ドラマーのトニー・マッキャロルは事実上の解雇通告を受けることになった。ドラムの腕が未熟なためトニーにレッスンを付けるなど指南を施したものの、技術レベルの解決が見出されないためというのがその理由だった。普段からトニーは他のメンバーに苛められていた。ギグジーには「お前をナイフで刺してやる」と本気で脅迫され、慌てて泣きついた先のノエルには「いいや、ギグジー。安心しろ。俺が先にこいつを刺してやるよ」と更に脅迫を受けたということもあった。リアムからはコンスタントに苛められていた。ボーンヘッドだけはそんなトニーに優しかったが、いつの間にか一緒になって苛めるようになっていた。
ある日にはトニーが練習に行ったところドラムセットが道端に放り出されていたこともあったし、「お前は二度とドラムに近づくな」とノエルに冷たく通告されたこともあった。メンバーの誰もがトニーの腕の未熟さと向上心の無さには我慢の限界だった。そして、とうとうトニー・マッキャロルは解雇通告を受けることになったのである。彼はそれを受け入れるしか他になかった。『Definitely Maybe』での成功から更なるステップアップするには、ドラマーの交代が不可欠だとメンバーは英断に踏み切ったのだった。


後継にはアラン・ホワイトがその座につくことになった。彼はポールウェラー・バンドのドラマーであるスティーヴ・ホワイトの実弟である。アランのドラムをたまたまスタジオで観ていたノエルが気に入ったところからオアシスへの加入が急遽決定した。ドラマーの交代によってオアシスはサウンド面での強化を図ることができた。ロンドン出身でギグジーと同い年だったアランは、生粋のマンチェスター人で構成されているオアシスに馴染めるか当初心配していたが、彼のドラムの腕はメンバーの誰もがすぐに認めるところとなった。間もなく彼らはとても親しい間柄になった。愛称はホワイティ―。オアシス最盛期を支えた言わずもがなの名ドラマーである。
トニー・マッキャロルは後に印税を巡る裁判を起こし、オアシスから1億円以上もの金をせしめる和解案を勝ち取ることになる。また、2010年秋にはトニー自身が筆を取ったオアシス回想録『The Truth, the Noel Truth, is Nothing Like the Truth』が発売予定だ(英版のみ)。オアシスのメンバーは執拗に精神的な打撃をトニーに与えていたが、長兄のポール・ギャラガーは彼と親しい間柄で、良い飲み友達だったとポール自身が語っている。


失業保険で生活をしていたアランにとってオアシスの加入は喜ばしいことだったし、地元の友人達はこぞって祝福してくれた。何しろデビューアルバムで全英1位をあっさり奪った気鋭のバンドのドラマーを担うことになったのだ。

アランはオアシスのドラマーとして正式に加入した。その後着々と進んでいったセカンドアルバムのレコーディングの最中、オアシスらしい事件が不幸にも起きてしまった。ひどく泥酔したリアムがノエルに派手な喧嘩を突然吹っ掛け、ホテルの植木鉢やテーブル、テレビが粉砕される大乱闘が始まってしまったのだ。ノエルはクリケット・バットでリアムをぶん殴り、怒り狂ったリアムは何故かボーンヘッドとホテルの外でひたすら殴り合っていたという。アランが運転する車に乗ってノエルは荒れ狂ったホテルを抜け出した。翌日になっても怒りの収まらないノエルは既にバンドを辞める決意を固めていた。マーカス・ラッセルは残りのメンバーを集め、ノエルがバンドを辞めたと静かな口調で切り出した。アランはオアシスに加入してからたいして日も経っていないのに、失職寸前の瀬戸際に突然立たされていた。まったくとんでもないバンドへ入ったものだ。しかし、この竜巻のような理不尽さが良くも悪くもオアシスなのである。結局、この事件はリアムが反省し謝罪を行いノエルと仲直りすることで解決となった。そして、ニューアルバムのレコーディングは何事も無かったかのように再び進んでいったのだった。


その夏オアシスはグラストンベリーでのライブを終えて、彼らはニューアルバムからの2枚目のシングルカット『Roll With It』のリリース日を正式に発表した。それは1995年の8月14日だった。ところが、である。後になって発表されたブラーのニューシングル『Country House』と同日の発売日になってしまったのだ。偶然の一致だろうか。いや、これは明白な故意によるものだった。何しろ元々『Country House』の発売日は8月28日であり、オアシスのリリース日を受けてブラー側が即座に変更したのだ。日頃から険悪だった彼らではあるが、とうとうブラー側がオアシスに向かって挑戦状を叩きつけた。どちらが一番かはっきりさせようじゃないか、と言わんばかりだった。
イギリスが誇る二大バンドが真正面から対決する! 同日リリースを知ったマスコミはすぐさまヒートアップし、その報道を繰り返した。
ブリッドポップの頂きに登る王者はいったいどちらのバンドなのか?


90年代ブリッドポップムーブメントの狂騒、音楽史的マイルストーン。オアシスVSブラー。人々の興奮をかきたて、圧倒的な速度でその勢いはイギリス中を覆っていった。


 

第7話「Definitely Maybe」 -Gallagher's History

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セカンドシングル『Shakermaker』のメロディはコカ・コーラ社のコマーシャルソングを盗作したのではないかという疑惑で、発売日前から話題を振りまいていた。騒動は次第に大きくなり、同社が訴訟を検討しているという報が流れる事態にまで至った。対するノエルはそれを否定しなかったどころかコカ・コーラに関する歌詞の存在までも認めたため、マスコミは更に面白く書きたて、人々のオアシスに対する関心は高まった。しかし、リリースされたレコードを手に取ってみると、そんな歌詞はまるで存在しなかった。ノエルの販売戦略込みの悪ふざけだったのだ。この事件が功を奏し、『Shakermaker』はファーストシングルの勢いを上回り、全英11位にランクインした。
8月にリリースしたサードシングル『Live Forever』は、いきなりランキングの10位に飛び込んだ。ジャケットで使用されている写真は、あのジョン・レノンの生家だ。幼少期のジョン・レノンを育てたミミおばさんの家をデザインにすることで、母であるペギー・ギャラガーへの感謝を重ね合わせていたのだろう。また、ビートルズのラストアルバム『Abbey Road』の発売から25周年記念という意味もあってこの写真を選んだそうだ。
オアシスはまったくの新人バンドながらBサイド曲のクオリティにもこだわっていた。これはスミスの影響が大きかった。ノエルはいつも彼らのBサイドのクオリティに感心していた。オアシスはA面に匹敵する曲を惜しげもなくカップリングに使用する。その傾向はセカンドやサードアルバムのシングルカットでより顕著になる。事実、『Acquiesce』や『Stay Young』は十分A面で通用する出来である。
ノエルの才能は留まるところを知らなかった。


ギャラガー兄弟は、子供の時からテレビで観るだけであったイギリスの音楽番組「トップオブザポップス」にとうとう出演を果たした。母親のペギーと長兄ポールは家族の快挙に手放しで喜んだ。あの素行の悪い兄弟、街の不良に過ぎなかったノエルとリアムが、何しろあっという間に自分たちの夢を実現していくのだ。ポールは新聞記事を欠かさず切り抜きスクラップを作っていたし、ペギーは親戚連中の分までレコードを買って配っていた。国民的番組である「トップオブザポップス」に映っているノエルとリアムの姿は、そんなギャラガー一家の誇りそのものだった。

ハッピーマンデイズは既に解散の憂き目に合い、ストーンローゼズは5年前にファーストアルバムをリリースして以来ひたすら沈黙を守り続けていた。彼らが中心となって創り出したマッドチェスタームーブメントは、過去のものとなり既に温もりを失っていた。この頃、1993年当時のイギリスで流行していた音楽は、アメリカが発信していたグランジだった。ニルヴァーナやパールジャムが代表格の新興音楽である。穴あきジーンズや古着のシャツといったファッションが街で流行し、人々はニルヴァーナを聴きあさり、グランジの信望者が次々と生まれていった。そして、全英チャートはグランジ勢力にすっかり制圧されていた。これではまるでアメリカから文化的侵略を受けているようなものだったので、一部の国粋主義者は公然とこの状況に対して異を唱えた。スウェードのブレット・アンダーソンもその一人だった。彼は露骨にアメリカに対して嫌悪感を表明した。だが、その圧倒的な勢いをかき消すことは誰にも出来なかった。
1994年4月5日、カート・コバーンが猟銃で自殺するという衝撃的な事件が起きた。この事件を契機にグランジムーブメントは暗転することになる。カリスマの逝去に伴い、瞬く間に浮力を失い落下していった。オアシスは偶然にもその翌週にデビューシングル『Supersonic』をリリースした。久々の力強い純国産ロックバンドの出現である。オアシスはグランジに代わる新たなシーンを創るのではないだろうか? ブリティッシュロックの復権。それは人々が永らく本当に待ち望んでいたものだ。

イギリスの音楽は見事な復活を果たす。1994年の8月30日、オアシスのファーストアルバム『Definitely Maybe』がリリースされた。『Definitely Maybe』はデビューアルバム史上最速の売上でチャートの1位に駆け上り、以後1年間ランキングのトップ20に延々と居座り続けた。クリエイションにとっては記念すべき初めてのナンバーワンレコードだった。オアシスのアルバムはヨーロッパじゅうで売れ、労働党党首であり後の首相トニー・ブレアまでもが通勤時の朝に『Definitely Maybe』を聴いていたという。レコーディングに際して述べれば『All Around The World』や『Whatever』は既にこの頃完成していたが、ノエルは後のアルバムのために取っておいた。まだ始まったばかりなのだ。すべてを出す必要は無い、と彼は判断した。ノエルはかなりの余裕を持って、全英ナンバーワンを獲得したのだった。なお、『Definitely Maybe』に使われているジャケットの写真撮影はボーンヘッドの家のリビングルームで行われた。

オアシスのファーストアルバムと共に、長きに渡ってチャートのトップ20に居座り続けるアルバムがもう一枚存在した。ブラーの『Park Life』だ。中産階級出身のデーモン・アルバーン達が始めた学生バンドである。ブラーは当初アイドル的な位置づけでデビューしたが、この3枚目のアルバムでは著しく成長し、イギリスの日常を歌った歌詞とポップなメロディが秀逸となっていた。彼らもまたグランジムーブメントから抜け出した人々の支持を集めていた。新しいシーンを象徴する2枚のアルバムだが、多くの受賞を勝ち取ったのは『Park Life』のほうだった。ノエルやリアムは相当に面白く無かった。「あんなクソアルバムのどこが良いんだ!」と悪態をついた。
もっとも『Definitely Maybe』発売以前からギャラガー兄弟はブラーに最大級の嫌悪感を示していた。ブラーのメンバーが良く通っていたロンドン北部の都市カムデンのバーにノエルとリアムは乗り込み、そこでギターのグレアムを見つけたことがあった。簡単に自己紹介した後でグレアムをひたすらおちょくり、ブラーを侮辱する替え歌まで歌い、そのバーから出入り禁止を受けてしまった。そして、再び兄と弟はカムデンの別のバーへ行って、地元の客と喧嘩をし、出入り禁止を食らって、面白がっているのであった。
彼らの因縁は深まり続け、後に音楽史に残るイギリス中を巻き込んだ大事件へと発展することになる。

アメリカ発の退廃的な彩りが特徴的なグランジはイギリスのチャートから去った。その隙間を埋めるようにしてブリッドポップムーブメントが到来し、オアシスとブラーはその代表格として90年代を牽引していくことになる。イギリスは見事なまでに復活した。国中に英国万歳の空気が漂い、人々は喜びと共に沸き上がった。また、オアシスは1994年の9月に記念すべき初来日を果たし、東名阪のクアトロツアーを行っている。
『Definitely Maybe』は全世界で通算700万枚以上を売り上げるアルバムとなり、現在もオアシスの代名詞的な存在となっている。ラウドなサウンドとリアムの若々しい声は、昇りゆく太陽のごとく鮮烈な光景を聴く者に与える。鮮やかな、それでいて力強い本物のロックンロールだ。彼らの歌う世界は、甘ったるいロマンスでもなく、創作劇の舞台でもない。そこに存在するものは、イギリスの労働者階級の人々が抱く夢や希望、そしてありのままの現実である。ギャラガー兄弟を始め、メンバーはついこの間までコンクリートをこねくり回し、穴を掘り、配管を運び生計を立てていた。失業保険の世話になることも度々だった。退屈でうんざりするような日々だ。労働者階級の人達にとって、それが当たり前の生き方だった。オアシスはそこから見事に抜け出し、目がくらむような成功を次々と勝ち取っていった。労働者階級の希望として、彼らは人々の眼の前に彗星のごとく現れたのだ。かつてビートルズがそうであったように。

第6話「I Need To Be Myself」 -Gallagher's History

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クリエーション・レコードの社長アラン・マッギーは1960年9月29日生まれで、グラスゴーの労働者階級の出自であり、スコットランド人の血を引いていた。また、プライマルスクリームのボビー・ギレスピーと同級生でもあった。成績も良くないし、とりわけ得意なことがあるわけでも無かった。一生を工場で過ごすのだろうとぼんやり思っていた。しかし、パンクロックとの出会いですべてが変わった。その音楽が教えてくれたものは、自分の人生は自分で切り開くという精神の在り方だった。クラッシュやセックス・ピストルズに出会い、パンクロックの精神が人生の信条となった。そのムーブメントが下火になっても、彼の魂はひたすらパンクロックに支えられていた。人生の途上でひどい麻薬中毒になり、ビジネスで幾多もの危機に瀕したこともあった。彼は人生を瀬戸際に追い込まれた時でも、パンクロッカーのごとく不屈だった。
アラン・マッギーは楽器の腕は大して無かったが、不思議な人望があり、プロモートする才能を持っていた。ロンドンのブリティッシュ・レールウェイで働きながら、その給料の大半をクラブ運営につぎ込み、しかも、やればやるほど金を失っていった。1984年にはクリエーション・レコードを設立し、レコードの販促に携わるようになった。主な所属アーティストは以下の通りだ。ジーザス&メリーチェイン、プライマルスクリーム、マイブラッディ・ヴァレンタイン、ティーンエイジファンクラブ、ライド、ヘヴィーステレオ。経営は前途多難だった。例えば、マイブラッディ・ヴァレンタインのセカンドアルバム『Loveless』の製作が2年半にも渡り、費用の捻出のため破産しかかったこともあった。アルバム自体は「シューゲイザーの金字塔」と評されて成功を収めるが、アラン・マッギーとマイブラッディ・ヴァレンタインは不和になり、メジャーレーベルへ移籍するに至った。
看板アーティストを失うことになったクリエイションは資金難から1992年にソニーと契約を結び、倒産の危機を回避することが出来た。ソニーは資金を提供する代わりに、クリエイション所属のアーティストを世界中に販売する権利を得た。その最中、クリエイションは1993年10月にオアシスと契約することに成功した。しかし、1994年に発売したプライマルスクリームのアルバム『Give Out But Don’t Give Up』の製作費も巨額に上り、スタッフ25人のインディーレーベルはまたもや破産寸前だった。窮地を救ったのは、新人バンドであるオアシスだった。
そして、1994年から1996年にかけての、誰も想像し得なかったオアシスの圧倒的な成功をアラン・マッギーは最も近くで目撃することになる。

1993年の終わり頃から『Colombia』が国営ラジオでオンエアーされ始めた。初期の曲のなかでも抜群にインパクトのある力強いもので、麻薬大国コロンビアに敬意を払って作られたという名曲だ。そのレコードはまだ一般には販売していなかったが、これはアラン・マッギーとマーカス・ラッセルの策略だった。正体の見えないバンドへの人々の関心は次第に高まった。オアシスは相変わらず小さなライブハウスを回り、並行して事件もせっせと積み重ねていった。酔っぱらってモーター付きの芝刈り機を盗み出し、遥か彼方まで芝を刈りながら消えて行ったこともあれば、「これはみんなのものだ!」と叫びながらストーンヘッジに侵入して逮捕されたこともあった。
オランダのアムステルダムではとっておきのハプニングを引き起こした。顛末は次の通りだ。リチャード・アシュクロフト率いるヴァーブのサポートとしてオランダで演奏することになっていたが、ノエル以外のメンバーはいつまで経っても到着したフェリーから降りて来なかった。ギグジーとリアムがシャンパンを盗み、酔っぱらって警備員と喧嘩し始め、独房に監禁されていたのだ。更に、ボーンヘッドとトニーも巻き添えを食らって強制送還の憂き目にあってしまった。部屋で眠り続けていたため事情を知らないノエルはひたすら彼らが降りてくるのを待っていた。しかし、いくら待ったところで降りて来なかった。オアシスにとって初めての海外公演となるはずだったが、当然ギグは中止となった。リアムは反省することも無く、「これぞ、ロックンロール的」等と誇らしげに語ったが、ノエルとマーカス・ラッセル、そしてボーンヘッドまでもが猛烈な怒りをリアムとギグジーに向けたのだった。また、別のライブでは楽屋でノエルが突然リアムを殴りつけ、兄弟喧嘩が始まることもあった。インタビュー中に掴み合いの喧嘩に発展することもあったし、どこへ行っても彼らは目立った。マスコミは面白がって、ますます注目するようになった。

94年3月にはオアシスにとって初めてのテレビ「ザ・ワード」に出演を果たし、ファーストシングル『Supersonic』が4月にリリースされた。当初は『Bring It On Down』がシングル候補としてレコーディングは進んでいった。しかし、レコーディングは難航していた。ノエルがアラン・マッギーに『Supersonic』のデモを聴かせたところ、「素晴らしい、これでいこう!」ということになった。新しい時代へと突き進んでいく、よりパワフルな曲がオアシスには不可欠だった。だから、ノエルは『Supersonic』を新たに書きあげる必要があった。彼らの精神的な在り方を込めたメッセージソングは、ファーストシングルにふさわしいもので現在に至るまでオアシスの代名詞になっている。あまりにも有名な歌詞「I Need To Be Myself  I Can’t Be No One Else」、「俺は俺自身である必要がある。他の誰にもなれはしないのだから」。ここにすべてが始まり、ギャラガー兄弟はいかなる時もこの信念に戻っていく。いつだって彼らはそうだった。ありのままの自分へのストレートな肯定。それはトラブルを巻き起こし、ファンを心配させる原因にもなっていたが、同時に彼らの強烈な魅力でもあった。
『Supersonic』は全英チャートの31位まで登った。インディーチャートでは当然のごとく1位だった。それに伴って、ツアーのライブチケットは各地でソールドアウトとなっていった。遂に始まったのだ。

第5話「アラン・マッギーの登場」 -Gallagher's History

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リアムから見て兄のノエルはどこにでもいるありふれた男のように映っていた。マンチェスター・シティーの応援をして、マリファナやドラッグをやって酒を飲む。そして、時折孤独な背中を伺わせる。しかし、彼は突如として天才ソングライターとしての才能を披露し、オアシスのリーダーとして迎えられるに至った。実際には、ソングライティングの能力以外に、ノエルがインスパイラル・カーペッツから得た収入をあてにしたということも加入の要因になったようだ。


ノエル・ギャラガーが加入した後のオアシスには、ある掟が存在した。それは「メンバー全員がバンドに全力を尽くす」ということと、「ドラッグや酒でステージへ支障をきたすことがないようにする」ということだった。全力の努力とドラッグへの完全なる自己責任。メンバーに課したものはたったのこれだけであった。しかしながら、オアシスがダートフォード・ボリテクニック大学でギグを行った時は、コカインやスピードでメンバーはステージ上でラリっていた。ボーンヘッドは煙草を三本もくわえたままだったし、ノエルは終始朦朧とし、ギグジーはステージから落下。トニーはドラムセットを叩いた瞬間にセットの半分が崩れ去る有様だった。おまけに彼らが連れて来たマンチェスターの連中は学生と喧嘩をし始めて大騒ぎとなった。しかも、ノエルが加入してまだ2回目のギグのことだった。だが、この程度の騒ぎはオアシスの暴動ヒストリーの序曲に過ぎない、ときっぱり言っておこう。オアシスの歴史は暴動の歴史でもある。行く先々で騒ぎを起こすことでも有名だ。例えば、2001年のマダムタッソー蝋人形館で調査したアンケート結果によると、世界の最も憎い人ランキングではオアシスのリアム・ギャラガーは堂々3位だった。1位はアドルフ・ヒトラー、2位がミロシェビッチ(ユーゴスラビア元大統領、民族主義独裁者として有名)という層々たる面子で、イラクのフセイン大統領よりランクが上だったのだ(ミュージシャンなのに……)。そのアンケート結果はBBCニュースでも伝えられたのだった。素行の悪さの認知度は桁違いである。その片鱗はデビュー前に、既に浮かび上がっていた。


オアシスは自分たちで大雑把なデモテープを作り、ボーンヘッドが運転するバンでメンバーは移動し、マンチェスターを中心にライブ活動を行った。だが、電光石火の高評価を受けたわけでは無かった。ノエル加入後の初ライブをボードウォークで行ってから1年程度は見向きもされなかった。ノエルはデモテープをレコード会社に送ってみたが、反応はかんばしく無かった。ニューオーダーやハッピーマンデイズが所属していたファクトリー・レコードも断りを入れたレーベルのひとつだ。そこでメンバーは、ノエルのツテを頼ってリヴァプール出身のバンドであるリアル・ピープルに無料でレコーディング会場を借り、本格的なデモテープを作成することにした。結果的に、今までのなかでは最高のデモテープとなった。


ノエルには役者をしている友人がいた。名前をイアンといった。彼は言った「今度このデモテープを兄貴に聴かせるつもりだよ」
「お前の兄貴がいったい何で俺たちのデモテープに興味を持つんだ?」とノエルはいぶかしげに訊いた。
「ああ。実はね、言っていなかったけど、俺の兄貴はジョニー・マーなんだよ」
80年代のロックシーンに大きな影響を与えたスミスの天才ギタリスト、ジョニー・マーとふいに繋がった瞬間だった。おまけにノエルはスミスの大ファンだった。レコードはすべて揃えていたし、モリッシーのサインまで持っていた。それに同じギタリストとしてジョニー・マーには憧れを抱いていたのだ。願ってもないことだった。
テープを聴いたジョニーは早速ノエルに電話をかけた「素晴らしい。とにかく君に会いたいんだ」
二人は会い、大いに盛り上がった。そして、ジョニー・マーは、自分自身のマネージャーであるマーカス・ラッセルをオアシスに紹介したがった。ジョニー・マーが最も信頼している敏腕マネージャーだ。必ずやオアシスの助けとなることだろう。マーカスは当時忙しかったので、その話を断ろうとしていた。しかし、ジョニーは言った。「とにかく彼らのギグを観に行ってみないか。素晴らしいバンドなんだよ、本当に」
マーカスは半信半疑のままジョニーに引きずられるようにしてライブ会場に向かった。彼がこれほどまでに勧めるのだから、そのバンドにはきっと「何かが有る」と考えても良いだろう、とマーカスは思った。当時のジョニー・マーはそれこそギターの神様のように崇められていた存在だったのだ。そして、二人はライブ会場の扉の向こう側へ姿を消した。やがてライブが始まり、彼らはオアシスが織り成すロックの力強さと未来をびりびりと肌で感じ取った。本当に素晴らしいバンドだった。この時オアシスは『Live Forever』を初めてライブで演奏したのだった。


運命の日は唐突に訪れた。1993年5月31日のことだ。クリエイション・レコードの社長アラン・マッギーとの出会いである。彼は、グラスゴーにある古いライブハウス「キング・タッツ・ワーワー・ハット」にいた。18ホイーラーという自分のレーベルのバンドが出演するし、妹に女性を紹介して貰おうとしてたまたま立ち寄ったのだ。一方のオアシスは出演依頼もされていなかったが、マンチェスターからバンに乗って勝手にやって来ていた。「おい、歌わせろよ。じゃないと、俺たちは何するか分からないぜ」とプロモーターを半ば脅して、無理やり出演枠の一番目をもぎ取った。彼らはギグをさせなければバーをぶっ潰すぐらいの勢いだった。ふてぶてしい、フーリガンのような連中だ。アラン・マッギーの目にはそのように映った。特にリアムはドラッグのディーラーのような風貌だった。しかし、その男は驚いたことにシンガーだった。いそいそと楽器を用意して、彼らが演奏したのはたったの4曲。『Rock’n Roll Star』『Bring It On Down』『Up In The Sky』『I Am The Walrus』。わずか15分足らずだった。アラン・マッギーは感激し切っていた。全身が貫かれるような圧倒的なパフォーマンスだったのだ。彼はライブが終わった後で、ノエルに契約を持ちかけた。オアシスはまだどことも契約していなかったが、デモテープだけ渡して即答を避けた。その後20社以上の争奪戦となったが、結局ノエルとマーカス・ラッセルはクリエイションを選択した。


アラン・マッギーはプレス担当のジョニー・ホプキンズにその夜早速電話をかけ、たった今観たばかりのオアシスについて熱く語った。彼はすっかり夢中になっていた。その熱っぽい電話は夜中じゅう何度もジョニー・ホプキンズの元にかかってくるのだった。「まじで凄いバンドを見つけたんだ!」アランはそう言って、感情を収める術を知らないまま、オアシスという新人バンドについてあれこれとまくし立てた。いつしかその情熱に溢れた電話はクリエイション・レコードの重要人物すべてに及んでいた。この時、アランが想像していたものは、プライマル・スクリームやストーン・ローゼズ規模の成功だった。運が良くて、R.E.Mぐらいにはなるかもしれない。そのラインがバンドとして達成出来る最高のものだろう、と。だが、デモテープで『Live Forever』を聴いてしまってから、その考えは綺麗に拭い去られてしまうことになった。「何て素晴らしい曲だ。これは本当に世界最高のバンドになるぞ!」

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