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アラン・マッギー:OASISは再結成する。

アラン・マッギーは、1993年、グラスゴーのKing Tut'sでOASISのギグを偶然見た後、契約を結ぶことを決めた。レコード会社Creationは、OASISを90年代最大のUKロックバンドへと導いた。

しかし、約1年前、ノエルとリアムのギャラガー兄弟の間に勃発した喧嘩により、バンドは解散することになる。

今週、OASISは、バンドとして最後のアルバムを発売する。「Time Flies...1994-2009」は、27枚のシングルを収録したOASIS初のコンピレーションアルバムだ。解散の日は突然訪れた。ノエルが「リアムとはもう一日たりともやっていけない」としてバンドを辞めたのだ。しかしマッギーによれば、二人が和解する時は必ずやってくるという。

「5年はかかるかな。互いに見合ってこう言うさ。『ここに2億ポンドある....ギグが100回はできるな、やってみるか?』」。

「金だよ。でもそれより何より二人は兄弟だ。本人達が何を言い合おうが問題じゃない。愛し合ってるんだから。俺にはわかる。連中のことならよくわかってるんだ。いらつくこともあるだろうが、愛し合ってることは間違いない」。

世間では、ギャラガー兄弟が解散ではなく休止期間をとるべきだったと考えている人が多いが、マッギーは、OASISが次のRolling Stonesのようにならなかったことを誇りに思っている。

「OASISはこれまでどおり活動を続けて金を稼ぎ続け、Rolling Stonesのようになることもできた。彼らから偉大なライブバンドの名を受け継ぐこともできただろう。いくらStonesとはいえ、80になってまでツアーはできないからね。でもまだ活きの良いうちに活動を終わらせるのもいいもんだよ。7thアルバムは最高に良い出来だったろう」。

今、OASISファンは次の展開を待ち望んでいる。ノエルはソロとしてのキャリアを追い求め、リアムは、新しいバンドBeady Eyeを立ち上げた。

90年代初期、The Rainのシンガーだったクリス・ハットンに代わってバンドに入ったリアム。当時のメンバーは、ポール・マッギガン、ポール・アーサー、トニー・マッキャロルだった。ノエルが加入した後、The RainはOASISへと名前を変える。バンドとして活動し始めた頃は、誰も彼らに興味を向けなかった。1993年5月、グラスゴーのKing Tut's Wah WahでギグをすることになったOASIS。そこに運命的な出会いが待ち受けていた。Creationのボスであるアラン・マッギーがオーディエンスの中にいたのだ。レーベルに所属するバンド18Wheelerのギグを見に来たマッギーだが、彼の目はOASISから離れなくなりその場で契約のオファーをするに至る。

その夜の出来事を振り返ったノエルは、次のように話している。

「グラスゴーでマッギーと契約を交わしたあの夜、俺達はBring It On Downという曲を演奏したんだ。彼はその曲をとても気に入ってくれた。Sex Pistolsみたいだと言ってね。1stシングルにしようとした。それでこの曲とあと何曲かレコーディングするためにリバプールへ向かった。どういうわけか1stシングルにはならなかったけどね。契約して行ったはいいが、何も得るものなく帰ってきたんだ。ひどいもんだった。そこらへんのアホバンドみたいにはなりたくなかった。他の連中が夕食をとってる間に、俺は奥の部屋にこもってSupersonicを書いたんだ。頭から出てくるままにね。文字通りあらゆる部分まで俺が作り上げたんだ。みんなのところに戻って、ドラマーに叩き方を教えた。ボーンヘッドがコードを書き出し、リアムのために歌詞も書き出した。今でもこの27枚のシングルには思い入れがあるよ。俺の好きな曲ばかりだ」。

「Supersonic」は、ロックバンドとしての決意表明の意味を持ち、デビューシングルにするには最高の曲だった。しかしその曲がレコーディングされた後ですら、実際にどの曲をデビューシングルとするかは決まっていなかった。マッギーは次のように話す。

「Bring It On Downをどうしても1stシングルにしたかった。OASISのデビューは革命を起こすことはわかっていたよ。でも、ここまで大きなものになるとは思いも寄らなかった。Bring It On Downで、革命の到来を告げようと考えていたんだ。でも、シングルにすることはできなかった。レコーディングが上手く行かなくてね。朝の1時になって、ノエルが俺を見て『Supersonicをシングルにしよう』と言ってきた。Supersonicが素晴らしい曲であることは承知だったが、アルバムに収録するつもりだったんだ。ノエルにそう言われた途端、急にそれが良い考えのように思えた。咄嗟の判断だったのさ。これがOASISの始まりだ。類を見ない出だしだろ。『俺は俺でなければならない。他の誰にもなれやしない』」。

1994年4月に発売された「Supersonic」は、しかし、UKチャート31位に終わる。その時1位を獲得したのはTake Thatの「Everything Changes」だった。その年、チャートを賑わしたのは、15週間トップを独占したWet Wet Wetの「Love Is All Around」であり、WhigfieldでありPato Bantonだった。

しかし、SuedeやBlurがアメリカのグランジ旋風に反撃を開始する中、ブリットポップの王者となったのはOASISだった。3rdシングル「Live Forever」は、バンドにとって初となるトップ10入りを果たし、90年代の象徴といえるアンセムとなった。ノエルは得意げに話す。

「SupersonicとShakermaker発売後、俺達のことをマンチェスターから出てきたキチガイだとあしらってた連中にこう言わせたのさ。『これは名曲だ』とね」。

1994年9月に発売されたデビューアルバム「Definitely Maybe」は、アルバムチャート1位を獲得。当時としては、イギリス史上最速の売り上げ記録を打ち立てた。

あっという間に、OASISはUK最大のバンドとなった。その頃、ノエルは、ドラマーだったトニー・マッキャロルの解雇を決める。1995年には、グラストンベリー・フェスティバルの華となり、2ndアルバムからのシングル「Some Might Say」では、初めてシングルチャートで1位を獲得。最大のライバルBlurがシングル「Country House」の発売日を「Roll With It」にぶつけ、1位を盗み取ったことは有名だが、最終的に勝ったのはOASISだった。2ndアルバム「Morning Glory」は、1週目で34万6千枚を売り上げ、10週間にわたって1位を独占した。アメリカでも4位を獲得し、これまでに1400万枚を売り上げている。シングル「Wonderwall」は1位こそ逃したものの、最も売り上げを伸ばしたシングルとなった。「Don't Look Back In Anger」は、1位を獲得した2枚目のシングルである。

1996年、ネブワースの2日間ギグで、OASISは25万人の観衆を会場に集めた。しかし実際にチケットを求めに走ったのは260万人だった。スコットランドのバロックでは、8万人が集結。OASISの栄光の頂点だ。1997年発売の3rdアルバム「Be Here Now」は、初日で35万枚を売り上げ、1週間で69万6千枚を売り上げ、アメリカでも2位を獲得した。マッギーは、その当時のことを嬉しそうに思い出す。

「頂点にいた時、俺達はイギリスの市場の7%を握っていたんだ。すごい数字だろ。OASISを見つけたことはとてもラッキーだったよ。彼らは適切なマネジメントとレコード会社と共に、素晴らしいバンドになったんだ」。

Creation以外のレコード会社と契約していたとしても、今のようなビッグバンドになれただろうか?

「適切な時期、適切な場所、適切な人々が必要だね。自分が他と比べて特別だったとは思わない。役割を果たしただけさ。俺は天才じゃない。良いプレイをして試合に勝つフットボールチームの一員だったんだ」。

その後のアルバムにも良い曲は収録されていたものの、OASISは再び1st、2ndアルバムのようなアルバムを出すに至っていない。

彼らのこれからについて考えた時、マッギーは、リアムの新バンドBeady Eyeがどのような動きをみせるのか予想がつかないと話した。

「ノエルは素晴らしいソングライターだし、リアムも負けず劣らずその力を見せてきているからね。アーティストとしては良い選択だ。でも、二人にとってのOASISを潰すのはまだ早い。まだやるべきツアーが残ってるだろう」。

Definitely. Maybe.