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セカンドシングル『Shakermaker』のメロディはコカ・コーラ社のコマーシャルソングを盗作したのではないかという疑惑で、発売日前から話題を振りまいていた。騒動は次第に大きくなり、同社が訴訟を検討しているという報が流れる事態にまで至った。対するノエルはそれを否定しなかったどころかコカ・コーラに関する歌詞の存在までも認めたため、マスコミは更に面白く書きたて、人々のオアシスに対する関心は高まった。しかし、リリースされたレコードを手に取ってみると、そんな歌詞はまるで存在しなかった。ノエルの販売戦略込みの悪ふざけだったのだ。この事件が功を奏し、『Shakermaker』はファーストシングルの勢いを上回り、全英11位にランクインした。
8月にリリースしたサードシングル『Live Forever』は、いきなりランキングの10位に飛び込んだ。ジャケットで使用されている写真は、あのジョン・レノンの生家だ。幼少期のジョン・レノンを育てたミミおばさんの家をデザインにすることで、母であるペギー・ギャラガーへの感謝を重ね合わせていたのだろう。また、ビートルズのラストアルバム『Abbey Road』の発売から25周年記念という意味もあってこの写真を選んだそうだ。
オアシスはまったくの新人バンドながらBサイド曲のクオリティにもこだわっていた。これはスミスの影響が大きかった。ノエルはいつも彼らのBサイドのクオリティに感心していた。オアシスはA面に匹敵する曲を惜しげもなくカップリングに使用する。その傾向はセカンドやサードアルバムのシングルカットでより顕著になる。事実、『Acquiesce』や『Stay Young』は十分A面で通用する出来である。
ノエルの才能は留まるところを知らなかった。


ギャラガー兄弟は、子供の時からテレビで観るだけであったイギリスの音楽番組「トップオブザポップス」にとうとう出演を果たした。母親のペギーと長兄ポールは家族の快挙に手放しで喜んだ。あの素行の悪い兄弟、街の不良に過ぎなかったノエルとリアムが、何しろあっという間に自分たちの夢を実現していくのだ。ポールは新聞記事を欠かさず切り抜きスクラップを作っていたし、ペギーは親戚連中の分までレコードを買って配っていた。国民的番組である「トップオブザポップス」に映っているノエルとリアムの姿は、そんなギャラガー一家の誇りそのものだった。

ハッピーマンデイズは既に解散の憂き目に合い、ストーンローゼズは5年前にファーストアルバムをリリースして以来ひたすら沈黙を守り続けていた。彼らが中心となって創り出したマッドチェスタームーブメントは、過去のものとなり既に温もりを失っていた。この頃、1993年当時のイギリスで流行していた音楽は、アメリカが発信していたグランジだった。ニルヴァーナやパールジャムが代表格の新興音楽である。穴あきジーンズや古着のシャツといったファッションが街で流行し、人々はニルヴァーナを聴きあさり、グランジの信望者が次々と生まれていった。そして、全英チャートはグランジ勢力にすっかり制圧されていた。これではまるでアメリカから文化的侵略を受けているようなものだったので、一部の国粋主義者は公然とこの状況に対して異を唱えた。スウェードのブレット・アンダーソンもその一人だった。彼は露骨にアメリカに対して嫌悪感を表明した。だが、その圧倒的な勢いをかき消すことは誰にも出来なかった。
1994年4月5日、カート・コバーンが猟銃で自殺するという衝撃的な事件が起きた。この事件を契機にグランジムーブメントは暗転することになる。カリスマの逝去に伴い、瞬く間に浮力を失い落下していった。オアシスは偶然にもその翌週にデビューシングル『Supersonic』をリリースした。久々の力強い純国産ロックバンドの出現である。オアシスはグランジに代わる新たなシーンを創るのではないだろうか? ブリティッシュロックの復権。それは人々が永らく本当に待ち望んでいたものだ。

イギリスの音楽は見事な復活を果たす。1994年の8月30日、オアシスのファーストアルバム『Definitely Maybe』がリリースされた。『Definitely Maybe』はデビューアルバム史上最速の売上でチャートの1位に駆け上り、以後1年間ランキングのトップ20に延々と居座り続けた。クリエイションにとっては記念すべき初めてのナンバーワンレコードだった。オアシスのアルバムはヨーロッパじゅうで売れ、労働党党首であり後の首相トニー・ブレアまでもが通勤時の朝に『Definitely Maybe』を聴いていたという。レコーディングに際して述べれば『All Around The World』や『Whatever』は既にこの頃完成していたが、ノエルは後のアルバムのために取っておいた。まだ始まったばかりなのだ。すべてを出す必要は無い、と彼は判断した。ノエルはかなりの余裕を持って、全英ナンバーワンを獲得したのだった。なお、『Definitely Maybe』に使われているジャケットの写真撮影はボーンヘッドの家のリビングルームで行われた。

オアシスのファーストアルバムと共に、長きに渡ってチャートのトップ20に居座り続けるアルバムがもう一枚存在した。ブラーの『Park Life』だ。中産階級出身のデーモン・アルバーン達が始めた学生バンドである。ブラーは当初アイドル的な位置づけでデビューしたが、この3枚目のアルバムでは著しく成長し、イギリスの日常を歌った歌詞とポップなメロディが秀逸となっていた。彼らもまたグランジムーブメントから抜け出した人々の支持を集めていた。新しいシーンを象徴する2枚のアルバムだが、多くの受賞を勝ち取ったのは『Park Life』のほうだった。ノエルやリアムは相当に面白く無かった。「あんなクソアルバムのどこが良いんだ!」と悪態をついた。
もっとも『Definitely Maybe』発売以前からギャラガー兄弟はブラーに最大級の嫌悪感を示していた。ブラーのメンバーが良く通っていたロンドン北部の都市カムデンのバーにノエルとリアムは乗り込み、そこでギターのグレアムを見つけたことがあった。簡単に自己紹介した後でグレアムをひたすらおちょくり、ブラーを侮辱する替え歌まで歌い、そのバーから出入り禁止を受けてしまった。そして、再び兄と弟はカムデンの別のバーへ行って、地元の客と喧嘩をし、出入り禁止を食らって、面白がっているのであった。
彼らの因縁は深まり続け、後に音楽史に残るイギリス中を巻き込んだ大事件へと発展することになる。

アメリカ発の退廃的な彩りが特徴的なグランジはイギリスのチャートから去った。その隙間を埋めるようにしてブリッドポップムーブメントが到来し、オアシスとブラーはその代表格として90年代を牽引していくことになる。イギリスは見事なまでに復活した。国中に英国万歳の空気が漂い、人々は喜びと共に沸き上がった。また、オアシスは1994年の9月に記念すべき初来日を果たし、東名阪のクアトロツアーを行っている。
『Definitely Maybe』は全世界で通算700万枚以上を売り上げるアルバムとなり、現在もオアシスの代名詞的な存在となっている。ラウドなサウンドとリアムの若々しい声は、昇りゆく太陽のごとく鮮烈な光景を聴く者に与える。鮮やかな、それでいて力強い本物のロックンロールだ。彼らの歌う世界は、甘ったるいロマンスでもなく、創作劇の舞台でもない。そこに存在するものは、イギリスの労働者階級の人々が抱く夢や希望、そしてありのままの現実である。ギャラガー兄弟を始め、メンバーはついこの間までコンクリートをこねくり回し、穴を掘り、配管を運び生計を立てていた。失業保険の世話になることも度々だった。退屈でうんざりするような日々だ。労働者階級の人達にとって、それが当たり前の生き方だった。オアシスはそこから見事に抜け出し、目がくらむような成功を次々と勝ち取っていった。労働者階級の希望として、彼らは人々の眼の前に彗星のごとく現れたのだ。かつてビートルズがそうであったように。