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クリエーション・レコードの社長アラン・マッギーは1960年9月29日生まれで、グラスゴーの労働者階級の出自であり、スコットランド人の血を引いていた。また、プライマルスクリームのボビー・ギレスピーと同級生でもあった。成績も良くないし、とりわけ得意なことがあるわけでも無かった。一生を工場で過ごすのだろうとぼんやり思っていた。しかし、パンクロックとの出会いですべてが変わった。その音楽が教えてくれたものは、自分の人生は自分で切り開くという精神の在り方だった。クラッシュやセックス・ピストルズに出会い、パンクロックの精神が人生の信条となった。そのムーブメントが下火になっても、彼の魂はひたすらパンクロックに支えられていた。人生の途上でひどい麻薬中毒になり、ビジネスで幾多もの危機に瀕したこともあった。彼は人生を瀬戸際に追い込まれた時でも、パンクロッカーのごとく不屈だった。
アラン・マッギーは楽器の腕は大して無かったが、不思議な人望があり、プロモートする才能を持っていた。ロンドンのブリティッシュ・レールウェイで働きながら、その給料の大半をクラブ運営につぎ込み、しかも、やればやるほど金を失っていった。1984年にはクリエーション・レコードを設立し、レコードの販促に携わるようになった。主な所属アーティストは以下の通りだ。ジーザス&メリーチェイン、プライマルスクリーム、マイブラッディ・ヴァレンタイン、ティーンエイジファンクラブ、ライド、ヘヴィーステレオ。経営は前途多難だった。例えば、マイブラッディ・ヴァレンタインのセカンドアルバム『Loveless』の製作が2年半にも渡り、費用の捻出のため破産しかかったこともあった。アルバム自体は「シューゲイザーの金字塔」と評されて成功を収めるが、アラン・マッギーとマイブラッディ・ヴァレンタインは不和になり、メジャーレーベルへ移籍するに至った。
看板アーティストを失うことになったクリエイションは資金難から1992年にソニーと契約を結び、倒産の危機を回避することが出来た。ソニーは資金を提供する代わりに、クリエイション所属のアーティストを世界中に販売する権利を得た。その最中、クリエイションは1993年10月にオアシスと契約することに成功した。しかし、1994年に発売したプライマルスクリームのアルバム『Give Out But Don’t Give Up』の製作費も巨額に上り、スタッフ25人のインディーレーベルはまたもや破産寸前だった。窮地を救ったのは、新人バンドであるオアシスだった。
そして、1994年から1996年にかけての、誰も想像し得なかったオアシスの圧倒的な成功をアラン・マッギーは最も近くで目撃することになる。

1993年の終わり頃から『Colombia』が国営ラジオでオンエアーされ始めた。初期の曲のなかでも抜群にインパクトのある力強いもので、麻薬大国コロンビアに敬意を払って作られたという名曲だ。そのレコードはまだ一般には販売していなかったが、これはアラン・マッギーとマーカス・ラッセルの策略だった。正体の見えないバンドへの人々の関心は次第に高まった。オアシスは相変わらず小さなライブハウスを回り、並行して事件もせっせと積み重ねていった。酔っぱらってモーター付きの芝刈り機を盗み出し、遥か彼方まで芝を刈りながら消えて行ったこともあれば、「これはみんなのものだ!」と叫びながらストーンヘッジに侵入して逮捕されたこともあった。
オランダのアムステルダムではとっておきのハプニングを引き起こした。顛末は次の通りだ。リチャード・アシュクロフト率いるヴァーブのサポートとしてオランダで演奏することになっていたが、ノエル以外のメンバーはいつまで経っても到着したフェリーから降りて来なかった。ギグジーとリアムがシャンパンを盗み、酔っぱらって警備員と喧嘩し始め、独房に監禁されていたのだ。更に、ボーンヘッドとトニーも巻き添えを食らって強制送還の憂き目にあってしまった。部屋で眠り続けていたため事情を知らないノエルはひたすら彼らが降りてくるのを待っていた。しかし、いくら待ったところで降りて来なかった。オアシスにとって初めての海外公演となるはずだったが、当然ギグは中止となった。リアムは反省することも無く、「これぞ、ロックンロール的」等と誇らしげに語ったが、ノエルとマーカス・ラッセル、そしてボーンヘッドまでもが猛烈な怒りをリアムとギグジーに向けたのだった。また、別のライブでは楽屋でノエルが突然リアムを殴りつけ、兄弟喧嘩が始まることもあった。インタビュー中に掴み合いの喧嘩に発展することもあったし、どこへ行っても彼らは目立った。マスコミは面白がって、ますます注目するようになった。

94年3月にはオアシスにとって初めてのテレビ「ザ・ワード」に出演を果たし、ファーストシングル『Supersonic』が4月にリリースされた。当初は『Bring It On Down』がシングル候補としてレコーディングは進んでいった。しかし、レコーディングは難航していた。ノエルがアラン・マッギーに『Supersonic』のデモを聴かせたところ、「素晴らしい、これでいこう!」ということになった。新しい時代へと突き進んでいく、よりパワフルな曲がオアシスには不可欠だった。だから、ノエルは『Supersonic』を新たに書きあげる必要があった。彼らの精神的な在り方を込めたメッセージソングは、ファーストシングルにふさわしいもので現在に至るまでオアシスの代名詞になっている。あまりにも有名な歌詞「I Need To Be Myself  I Can’t Be No One Else」、「俺は俺自身である必要がある。他の誰にもなれはしないのだから」。ここにすべてが始まり、ギャラガー兄弟はいかなる時もこの信念に戻っていく。いつだって彼らはそうだった。ありのままの自分へのストレートな肯定。それはトラブルを巻き起こし、ファンを心配させる原因にもなっていたが、同時に彼らの強烈な魅力でもあった。
『Supersonic』は全英チャートの31位まで登った。インディーチャートでは当然のごとく1位だった。それに伴って、ツアーのライブチケットは各地でソールドアウトとなっていった。遂に始まったのだ。