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リアムから見て兄のノエルはどこにでもいるありふれた男のように映っていた。マンチェスター・シティーの応援をして、マリファナやドラッグをやって酒を飲む。そして、時折孤独な背中を伺わせる。しかし、彼は突如として天才ソングライターとしての才能を披露し、オアシスのリーダーとして迎えられるに至った。実際には、ソングライティングの能力以外に、ノエルがインスパイラル・カーペッツから得た収入をあてにしたということも加入の要因になったようだ。
ノエル・ギャラガーが加入した後のオアシスには、ある掟が存在した。それは「メンバー全員がバンドに全力を尽くす」ということと、「ドラッグや酒でステージへ支障をきたすことがないようにする」ということだった。全力の努力とドラッグへの完全なる自己責任。メンバーに課したものはたったのこれだけであった。しかしながら、オアシスがダートフォード・ボリテクニック大学でギグを行った時は、コカインやスピードでメンバーはステージ上でラリっていた。ボーンヘッドは煙草を三本もくわえたままだったし、ノエルは終始朦朧とし、ギグジーはステージから落下。トニーはドラムセットを叩いた瞬間にセットの半分が崩れ去る有様だった。おまけに彼らが連れて来たマンチェスターの連中は学生と喧嘩をし始めて大騒ぎとなった。しかも、ノエルが加入してまだ2回目のギグのことだった。だが、この程度の騒ぎはオアシスの暴動ヒストリーの序曲に過ぎない、ときっぱり言っておこう。オアシスの歴史は暴動の歴史でもある。行く先々で騒ぎを起こすことでも有名だ。例えば、2001年のマダムタッソー蝋人形館で調査したアンケート結果によると、世界の最も憎い人ランキングではオアシスのリアム・ギャラガーは堂々3位だった。1位はアドルフ・ヒトラー、2位がミロシェビッチ(ユーゴスラビア元大統領、民族主義独裁者として有名)という層々たる面子で、イラクのフセイン大統領よりランクが上だったのだ(ミュージシャンなのに……)。そのアンケート結果はBBCニュースでも伝えられたのだった。素行の悪さの認知度は桁違いである。その片鱗はデビュー前に、既に浮かび上がっていた。
オアシスは自分たちで大雑把なデモテープを作り、ボーンヘッドが運転するバンでメンバーは移動し、マンチェスターを中心にライブ活動を行った。だが、電光石火の高評価を受けたわけでは無かった。ノエル加入後の初ライブをボードウォークで行ってから1年程度は見向きもされなかった。ノエルはデモテープをレコード会社に送ってみたが、反応はかんばしく無かった。ニューオーダーやハッピーマンデイズが所属していたファクトリー・レコードも断りを入れたレーベルのひとつだ。そこでメンバーは、ノエルのツテを頼ってリヴァプール出身のバンドであるリアル・ピープルに無料でレコーディング会場を借り、本格的なデモテープを作成することにした。結果的に、今までのなかでは最高のデモテープとなった。
ノエルには役者をしている友人がいた。名前をイアンといった。彼は言った「今度このデモテープを兄貴に聴かせるつもりだよ」
「お前の兄貴がいったい何で俺たちのデモテープに興味を持つんだ?」とノエルはいぶかしげに訊いた。
「ああ。実はね、言っていなかったけど、俺の兄貴はジョニー・マーなんだよ」
80年代のロックシーンに大きな影響を与えたスミスの天才ギタリスト、ジョニー・マーとふいに繋がった瞬間だった。おまけにノエルはスミスの大ファンだった。レコードはすべて揃えていたし、モリッシーのサインまで持っていた。それに同じギタリストとしてジョニー・マーには憧れを抱いていたのだ。願ってもないことだった。
テープを聴いたジョニーは早速ノエルに電話をかけた「素晴らしい。とにかく君に会いたいんだ」
二人は会い、大いに盛り上がった。そして、ジョニー・マーは、自分自身のマネージャーであるマーカス・ラッセルをオアシスに紹介したがった。ジョニー・マーが最も信頼している敏腕マネージャーだ。必ずやオアシスの助けとなることだろう。マーカスは当時忙しかったので、その話を断ろうとしていた。しかし、ジョニーは言った。「とにかく彼らのギグを観に行ってみないか。素晴らしいバンドなんだよ、本当に」
マーカスは半信半疑のままジョニーに引きずられるようにしてライブ会場に向かった。彼がこれほどまでに勧めるのだから、そのバンドにはきっと「何かが有る」と考えても良いだろう、とマーカスは思った。当時のジョニー・マーはそれこそギターの神様のように崇められていた存在だったのだ。そして、二人はライブ会場の扉の向こう側へ姿を消した。やがてライブが始まり、彼らはオアシスが織り成すロックの力強さと未来をびりびりと肌で感じ取った。本当に素晴らしいバンドだった。この時オアシスは『Live Forever』を初めてライブで演奏したのだった。
運命の日は唐突に訪れた。1993年5月31日のことだ。クリエイション・レコードの社長アラン・マッギーとの出会いである。彼は、グラスゴーにある古いライブハウス「キング・タッツ・ワーワー・ハット」にいた。18ホイーラーという自分のレーベルのバンドが出演するし、妹に女性を紹介して貰おうとしてたまたま立ち寄ったのだ。一方のオアシスは出演依頼もされていなかったが、マンチェスターからバンに乗って勝手にやって来ていた。「おい、歌わせろよ。じゃないと、俺たちは何するか分からないぜ」とプロモーターを半ば脅して、無理やり出演枠の一番目をもぎ取った。彼らはギグをさせなければバーをぶっ潰すぐらいの勢いだった。ふてぶてしい、フーリガンのような連中だ。アラン・マッギーの目にはそのように映った。特にリアムはドラッグのディーラーのような風貌だった。しかし、その男は驚いたことにシンガーだった。いそいそと楽器を用意して、彼らが演奏したのはたったの4曲。『Rock’n Roll Star』『Bring It On Down』『Up In The Sky』『I Am The Walrus』。わずか15分足らずだった。アラン・マッギーは感激し切っていた。全身が貫かれるような圧倒的なパフォーマンスだったのだ。彼はライブが終わった後で、ノエルに契約を持ちかけた。オアシスはまだどことも契約していなかったが、デモテープだけ渡して即答を避けた。その後20社以上の争奪戦となったが、結局ノエルとマーカス・ラッセルはクリエイションを選択した。
アラン・マッギーはプレス担当のジョニー・ホプキンズにその夜早速電話をかけ、たった今観たばかりのオアシスについて熱く語った。彼はすっかり夢中になっていた。その熱っぽい電話は夜中じゅう何度もジョニー・ホプキンズの元にかかってくるのだった。「まじで凄いバンドを見つけたんだ!」アランはそう言って、感情を収める術を知らないまま、オアシスという新人バンドについてあれこれとまくし立てた。いつしかその情熱に溢れた電話はクリエイション・レコードの重要人物すべてに及んでいた。この時、アランが想像していたものは、プライマル・スクリームやストーン・ローゼズ規模の成功だった。運が良くて、R.E.Mぐらいにはなるかもしれない。そのラインがバンドとして達成出来る最高のものだろう、と。だが、デモテープで『Live Forever』を聴いてしまってから、その考えは綺麗に拭い去られてしまうことになった。「何て素晴らしい曲だ。これは本当に世界最高のバンドになるぞ!」
